スペイン出身のヴァイオリニストであるサラサーテが作曲した、管弦楽伴奏付きヴァイオリン独奏曲。写真は20世紀の代表的ヴァイオリニスト・ハイフェッツ演奏のレコード
ハンガリーで開かれた国際学会で、ドナウの真珠と呼ばれる首都ブダペストを訪れた。ヨーロッパで最も美しい街の一つとして世界遺産が広がっている。と、ツアーガイドブックで予習した。
ところが街に降り立つと、石畳の隙間にはびっしりと煙草の吸い殻が詰まっていた。地下鉄は驚くほど古く、ギロチンかと思うほど激しく閉まる客車の扉に恐怖を覚えた。夕方、飛び込みでハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団の演奏会のチケットを手に入れ、クラシックな劇場で極端に憂鬱なジプシー音楽を聴かされた。曲名は憶えていない。
終演後にトカイワインで漸く上機嫌になり、その石畳をさらに汚しながらホテルに向かうと、風に乗って「ツィゴイネルワイゼン」の調べが聞こえてきた。そう言えば、私が幼少の頃、母が小さなレコード盤で「ツィゴイネルワイゼン」を聞いている横に座らされていた記憶がある。そう、何回も聞かされた記憶がある……。昭和一桁生まれの母は、女学校で文学少女となり、結婚後も読書や音楽鑑賞を好んでいた。あの母の好んだサラサーテのヴァイオリンの音色か?
日本に帰り、Anne-Sophie Mutterの奏でる「ツィゴイネルワイゼン」のCDを買って聞いた。ところが、これが妙に色っぽい音色で、幼少期の記憶の旋律と違う。仕方なく、実家に戻って本棚や押し入れを探したらば出てきた。「ハイフェッツ」の演奏による45回転のレコードだ。良い時代になった、YouTubeで当時の音色を聞くことができる。この出だしの哀愁に満ちたエキゾチックな旋律に、母はどんな憂鬱と嘆息を重ねていたのだろうか。いまは聞くことの出来なくなったレコードを見つめ、若かりし頃の母の面影を追い求めている。