ナポリ生まれの作家ジュゼッペ・マロッタ(1902~1963)が、第二次世界大戦終了前後の北イタリアを舞台に描いた短編『老医』(在里寛司訳、『世界短篇文学全集9』、集英社)には、人間の死というものに関する独特な考えが示されている。
この作品の主人公は、1905年以来ロンバルディアの小都市で仕事をしている70歳の老医師で、病院の院長を務めるかたわら、午後は家で診察したり往診に出かけたりしていた。
だが、腕のいい外科医だった彼は、長年の経験から人間が死ぬときを「偉大な瞬間」と考え、「私達は、死にのぞんで、私達に打明けられたただ1つの真実を語る」と考えるようになる。この医師は、死に瀕した人への接し方として、「瀕死の人達に近づいてはいけない、と忠告しておきたい。感動的な喜びにひたっているその人達を、そっとしておいて上げなさい」「彼らの運命を神に任せなさい。その瞬間には、彼らはアダムの如く、本当にありのままの姿になり、心底まで赤裸々となるのだ」といった心得を挙げるのである。
「健康と言う、あなた方のこの世的な、俗っぽい衣装は、その人達の気持を損ねる以外の何ものでもない」と語る彼は、「私が病人の部屋に入ったとき、もし死神がそこにいれば、私にはすぐそれがピンとくる」というような独特の感性を持つ医師で、死神を感じる部屋には「尊厳さ」があるとして、自らの経験を次のように語る。「私は、感じの悪い人達が、息を引き取るまでの数日の間に驚く程に高貴で美しい容貌を持つ人間に変ってしまうのを見てきた」「死の床に横たわると実にくだらないこそ泥ですら、大使にも又国王にさえ似てくることが有りえるのだ」。
勿論、人間には様々な死の迎え方があってしかるべきだし、この医師は死にゆく人々を美化しすぎているきらいもないではない。また、どんな死に方が理想的かは結局各自がその場に臨まなければわからないことなのかもしれないが、いずれにしてもこの医師は、人は家族に見守られて死ぬのが幸せとするような一般常識とは反対の立場をとっている。そこには亡くなる瞬間まで懸命に延命処置を施す医療への批判も含まれていて、この医師は、死にゆく人々を偉大で感動的な体験をしている尊厳ある存在としてとらえているのである。
もっとも、この医師は、終戦前後のこの街では顔見知りの人間同士が残忍に殺し合ったことを嘆いて、「この世を襲ったあの恐怖の洪水は、まるで昨日のことのようだ。あのときは、この市でも又、いや恐らくは他所以上に、人々は憎悪し合った」とも語っている。そして、死にゆく人々の尊厳に対する感覚が麻痺した街の人々に向かって、「何かの病気で、又は罪を犯したために、私達から永遠に離別して行く人達に、静じゃくと庇護とを与えてやって下さい」と訴える場面で、この作品は終わるのだが、そこにはドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で描いたような死に瀕した人間の多幸感や精神的成長といった現象も絡んでいるのかもしれない。