高校時代に漢文の授業を受けた。漢文を面白いと感じさせる名講義に惹かれ、興味を持って積極的に取り組んだ。国破山河在、春眠不覚暁、春宵一刻直千金、年年歳歳花相似、月落烏啼霜満天や少年易老学難成などの漢詩は今でもすらすら暗唱できる。特に最後の「少年老い易く学成り難し」という表現は、この年齢になって確かにそうだと実感している。
開業してから、某製薬会社が主催する漢方薬の講習会に通ったことがある。陰陽虚実や気血水などという、西洋医学とは根底から異なる疾病観や診断の方法論を学んだ。たとえば、頭痛医頭、脚痛医脚、不是根本弁法(頭が痛ければ頭の治療をする。脚が痛ければ脚の治療をする。これは医療の根本的な方法ではない)という表現が講習会の教材に載っていた。「医」は「治す」という意味で使われている。西洋医学とはまったく異なる漢方医学特有の認識論である。漢方医学には難解な漢字や表現が続出するが、漢文に親しんできたお陰で心理的な抵抗はなかった。
漢方の講習会に通っているうちに、中国語の知識があれば漢方の理解の助けになると感じ、一般市民向けの中国語講座に受講を申し込んだ。遅蒔きながら中国人講師の指導で中国語を学びはじめ、辞書や参考書も買い込んだ。
傍若無人、竜頭蛇尾、言語道断、画竜点睛、温故知新、臥薪嘗胆、四面楚歌など、中国古典や歴史上の故事に由来する四字熟語を日常会話でもよく口にする。中国語を外国語として系統的に学ばなくても、即座に理解できるほど日本語に深く浸透し定着している。
病入膏肓という表現を、病(やまい)膏肓(こうもう)に入ると読み下す。膏肓を正しくは「こうこう」と読むと、その講習会で教わった。膏肓は鍼灸医学の穴位、つまり俗に「つぼ」と呼んでいる人体部位の名称である。亡の下に月を書く肓(こう)を、亡の下に目を書く盲(もう)と見誤ったための誤読と言われている。鍼灸医学界では正しく「こうこう」と呼んでいる。誤読の膏盲(こうもう)が広く定着して辞書にも載ってしまうと、もはや誤読とは呼べない。
口腔や鼻腔の腔も正しくは「こう」と読むが、医学界では「こうくう」や「びくう」という誤読が定着している。また、筋弛緩剤の弛緩も正しくは「しかん」と読むが、医学界では「ちかん」という誤読が罷り通っている。誤読の慣用化の実例は予想外に多く存在する。余談だが、パソコンに「ちかん」と入力すると、置換、痴漢と併せて誤読の「弛緩」も画面に表示される。
中国語を学びながら、日本ではほとんど知られていない中国語の成句や慣用句を辞書で目にすると、即座に片っ端からメモ帳に書き留めておく習慣が身に付いた。では、興味深い表現をいくつか披露してみたい。
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感冒是百病之源。
「感冒は百病の源」
日本では「万病の元」という。日本語のほうが白髪三千丈式の誇張表現である。
病従口入、禍従口出。
「病は口から入り、禍は口から出る」
入と出が対になって使われている。日本語では単に「口は禍の元」と言っている。
口是禍之門、舌是禍之根。
「口は禍の門、舌は禍の根」
口と舌が対になって使われている。
医老能治病、僧老会念経。
「高齢の医者は治療が上手、高齢の僧侶は読経が上手」
医得病、医不得命。
「病気は治せるが、死の運命にある者は医療では救えない」
「得」はできるという意味で使われており、得と不得を対にしている。
刀傷易治、口傷難治。
「刀の傷は治しやすいが、言葉による傷は治し難い」
樹大招風、人高惹禍。
「高い木は風当たりが強い。目立つ人は禍を惹起しやすい」
日本の「出る杭は打たれる」に相当する。
行要好伴、住要好隣。
「旅には良い伴侶が必要。住むには良い隣人が必要」
「旅は道連れ、世は情け」の中国版である。
大敵不惧、小敵不侮。
「大敵と雖も惧れず、小敵と雖も侮らず」
大と小、それに惧(おそれる)と侮(あなどる)が対になっている。
良機難得、良友難逢。
「良い機会は得難い。良い友には逢い難い」
福無双至、禍不単行。
「福は2つ続けて来ない。禍は単独では来ない」
良いことが2つ続くことは稀であり、悪いことは重ねて起こりがちである。福と禍を対にしている。
智者千慮必有一失、愚者千慮必有一得。
「智者でも時には失敗する。愚者でも時には気の利いたことを言う」
智と愚、それに失と得が一対になっている。
樹欲静而風不止、子欲養而親不待。
「木が静かにしていたいと望んでも風が止まない。子どもが親孝行をしたいと望む頃には親がいない」
酒渇陳年酒、医求老郎中。
「酒を飲むなら古い酒を、医者を探すなら年老いた医者を」
渇は飲む、陳年は長い年月を経たという意味。郎中は漢方医という意味である。酒と医を対句にしている。
溺海者寡、喪酒者多。
「海で溺れる者は少ない。酒に溺れて命を失う者は多い」
喪酒は酒の飲み過ぎで死ぬという意味である。寡と多が対になっている。
酒逢知己千杯少、話不投機半句多。
「親友と飲む酒は千杯でも少ない。話は噛み合わないと半句でも多すぎる」
投機は意見や見解が一致するという意味で使われる。
中国語には対句形式の格言や成句が多く見られ、快い音声のリズムを醸し出している。
親是親、財是財。
「親は親、財産は財産」
親子でも金銭に関しては他人のように振る舞う。漢民族の金銭感覚だろうか。
財能通神。
「金さえあれば神様でも思いのままに動かせる」
金が万能の世の中である。日本の「地獄の沙汰も金次第」に相当する。
銭尽人情断。
「金が尽きると人情が断たれる」
日本の「金の切れ目が縁の切れ目」とそっくりである。
双親有終年、銭財有尽日。
「両親は死ぬ年がある。金銭は尽きる日がある」
「いつまでもあると思うな親と金」の中国版である。
学如逆水行舟、不進則退。
「学問は川の流れに逆らう舟の如し。進まなければすなわち退くのみ」
不知則問、不能則学。
「知らなければ人に問え。できなければ自分で学べ」
有縁千里来相会、無縁対面不相逢。
「縁があれば千里離れている人とも知り合える。縁がなければ目の前の人とも知り合えない」
人の出会いは縁あればこそである。私の最もお気に入りの中国語の表現である。
今後も漢方医学と中国語を併せて勉強していきたいと願っている。