株式会社日本医事新報社 株式会社日本医事新報社

CLOSE

緒方洪庵(7)[連載小説「群星光芒」215]

No.4803 (2016年05月14日発行) P.64

篠田達明

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-01-24

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • next
  • 松本良順の歯に衣着せぬ手紙を読んだ緒方洪庵は、ポンペ氏の説に批判がましいあとがきを書いたのは適切でなかったと率直に陳謝する手紙を書き送った。

    すると、折り返し良順から「尊敬してやまぬ洪庵先生に大変失礼をいたしました」と丁重な詫び状が届いた。

    文面には良順の蘭方に対する情熱と江戸っ子らしい気っ風のよさが溢れていて、胸にさわやかな風が吹き抜けた。

    良順は佐倉順天堂を興した西洋外科の大家佐藤泰然の次男であり、将来は蘭方医界を背負って立つ傑物になろうと頼もしく思った。

    安政5(1858)年、秋晴れのその日、洪庵は新たに入門した福井藩の藩医から大野藩が開いた洋学館の近況をきいた。

    「洋学館では蘭学教授の伊藤慎蔵先生を慕って70人あまりの書生が集まっています。大野藩のみならず、福井藩、鯖江藩、丸岡藩、勝山藩あたりからも続々と入学志願者がやって来るとききました」

    その晩、洪庵は妻を呼んで話した。

    「考えてみれば、平三と四郎は金遣いが荒いとか、遊興にふけって身を持ち崩した放蕩者ではない。ただ蘭学を身につけたい一心で大野の洋学館へいった殊勝な兄弟である。既に大野へいって3年になる。そろそろ2人の勘当を解くことにいたそう」

    八重は目に涙をため、泣き笑いの表情を泛かべてうなずいた。

    翌日、洪庵は兄弟が厄介になっている大野の門人伊藤慎蔵に書状を送った。

    「両人研鑽の由、ご指導の賜物と謝し奉り候。今後両人の勘当を許し、平三には今般帰国させたく、また四郎は引き続き御地にて勉学させたく、御厄介には候えども、重ねて宜しく願い上げ奉り候」

    大坂に帰った平三は、松本良順の世話で長崎海軍伝習所のポンペについて学ぶことが決まった。16歳の平三は顔をくしゃくしゃにして悦びにひたった。

    残り1,530文字あります

    会員登録頂くことで利用範囲が広がります。 » 会員登録する

  • next
  • 関連記事・論文

    もっと見る

    関連書籍

    関連求人情報

    もっと見る

    関連物件情報

    もっと見る

    page top