1906(明治39)年に発表された夏目漱石の『吾輩は猫である』の8章には、漱石の分身的な主人公である英語教師の苦沙弥が、かかりつけ医の甘木先生に往診を依頼する場面がある。
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当時の苦沙弥は、隣の中学校の生徒たちの嫌がらせに翻弄されて、「朝から晩まで癪に障り続けだ」と言うほどの癇癪を起こしていたのであるが、「いくら中学校の隣に居を構えたって、かくのごとく年が年中肝癪を起しつづけはちと変だ」と気づいたのである。「変であって見ればどうかしなければならん。どうするったって仕方がない、やはり医者の薬でも飲んで肝癪の源に賄賂でも使って慰撫するよりほかに道はない」、そう思った苦沙弥は、「平生かかりつけの甘木先生を迎えて診察を受けて見ようという量見を起した」のである。
この時の苦沙弥は、もう一人の漱石の分身的主人公である猫から「自分の逆上に気が付いただけは殊勝の志」と評価されているように、自らの神経衰弱に対する病感はあったことになるが、往診にやってきた甘木先生は、例のごとくにこにこと落ち着き払って、「どうです」と尋ねた。
この甘木先生の態度に対しては、猫も、「吾輩は『どうです』と言わない医者はどうも信用をおく気にならん」と評しているのだから、漱石自身もこうした悠揚迫らない医師の診察態度を評価していた様子がうかがえる。
そんな甘木先生に向かって、苦沙弥は「一体医者の薬は利くものでしょうか」、「私の胃病なんか、いくら薬を飲んでも同じ事ですぜ」などと失礼な質問をするが、それに対しても、「温厚の長者」たる甘木先生は、別段激した様子もなく、「利かん事もないです」、「そう急には、癒りません、だんだん利きます」と穏やかに答えた。
そんな遣り取りをしながら、甘木先生が「やはり肝癪が起りますか」と問うと、苦沙弥は「起りますとも、夢にまで肝癪を起します」と答える。それに対して、甘木先生が「運動でも、少しなさったらいいでしょう」と助言すると、苦沙弥は「運動すると、なお肝癪が起ります」と、正直なところを答えたため、さすがの甘木先生も呆れて、「どれ一つ拝見しましょうか」と言って、診察を始めた。
すると、苦沙弥は突然、「せんだって催眠術のかいてある本を読んだら、催眠術を応用して手癖のわるいんだの、いろいろな病気だのを直す事が出来ると書いてあったですが、本当でしょうか」、「催眠術をかけるのはむずかしいものでしょうか」と質問したが、意外にも甘木先生の返事は、「なに訳はありません、私などもよく懸けます」というものだった。
そこで早速、苦沙弥も催眠術をかけてもらうことになるが、その方法は、概略以下のようなものであった。
両眼の上瞼を上から下へと撫でて、しきりに同じ方向に癖をつける。しばらくすると、「こうやって、瞼を撫でていると、だんだん眼が重たくなるでしょう」と聞く。なおも同じように撫で下ろして、「だんだん重くなりますよ」と言う。こうした摩擦法を3、4分繰り返した後に、「さあもう開きませんぜ」と言いながら、「あけるなら開いて御覧なさい。とうていあけないから」と言う。しかし、苦沙弥が「そうですか」と言ったかと思うと、普段通りに両眼を開いてしまった……。
結局、催眠術は失敗に終わり、苦沙弥がにやにや笑いながら「懸かりませんな」と言うと、甘木先生も笑いながら「ええ、懸りません」と言って、帰って行ったというのが、甘木先生往診の顛末である。
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このように、甘木先生と苦沙弥の間には、ある種の理想的な医師・患者関係が形成されている。甘木先生の診察態度をみると、「例のごとくにこにこと落ちつき払って」、「温厚の長者だから、別段激した様子もなく」、「穏やかに答えた」などと表現されていて、「近所合壁有名な変人」で、「神経病」と噂されている苦沙弥の遠慮のない質問にも、終始余裕のある態度で応えている。
おそらく、こうした甘木医師によって醸し出される穏やかな雰囲気こそが、癇癪に悩む苦沙弥には何よりの薬だったのであり、だからこそ催眠術が不首尾に終わっても、苦沙弥も甘木先生も笑って済ませることができたのであろう。苦沙弥と甘木先生の間には、催眠術ができるとかできないとかを超越した別次元での信頼関係が形成されていたのであり、甘木先生に診察してもらうこと自体に、治療的な意味があったものと思われる。また、そこには、精神科医が少なかった当時は、一般の開業医が、地域の精神医療にも少なからぬ役割を果たしていた様子がうかがえるが、甘木先生の診察にも疑問がないわけではない。
1つは、苦沙弥の癇癪とはいかなるものか、その背後にはどのような事情が潜んでいるのかといった、癇癪という症状の本態に関わる質問をしていないことである。勿論、「やはり肝癪が起りますか」と尋ねているところをみると、過去にそのような質問は既になされているのかもしれないが、作品に描かれている限りでは、その辺の事情が詳かではなく、甘木先生の癇癪に対する対応も、運動をせよとか、催眠術で落ち着かせるといった表面的かつ対症療法的なものに留まっている。
もう1つ不思議なのは、一般の開業医たる甘木先生が催眠術を試みていることである。この辺の事情も『猫』には記されていないが、これについては、甘木先生のモデルたる尼子四郎医師が、呉 秀三との関係で、呉が教授を務めていた東大の精神病学教室の医員でもあったことが影響しているのではないかと思われる。当時の東大では、後に森田療法を創始する森田正馬が催眠術の研究をしていたため、尼子医師の催眠術は、若き日の森田仕込みの可能性も考えられるからである。
それに加えて、尼子医師の千駄木の家と、森田正馬の蓬莱町の家は徒歩で7~8分の距離で、尼子医師は森田家の家庭医でもあったことや、森田の五高時代には夏目漱石が教鞭をとっていて、しかも五高時代の森田の親友・寺田寅彦は漱石を深く敬愛していたことなどを考えると、甘木先生が苦沙弥に催眠術を施すという設定の背後には、漱石の神経衰弱をめぐる尼子・森田・寺田という三者の浅からぬ因縁も想定される。あるいは、漱石があれほどの幻覚や妄想がありながら入院せずにすんだのも、こうした尼子医師らの支えがあったればこそかもしれない。