新聞・雑誌に移民という文字を今までにないほど目にする。移民の定義は異なる国家へ移り住むこと、出生地以外に12カ月以上居住していること、自由意思に基づいて生活の場を外国に移し定住していること。定住国を変更することからみれば、筆者は間違いなく、移民の1人になる。
19世紀に国家の概念ができて、国籍法が形成され、移民の世紀も始まった。移民から想起する言葉は、移住先への憧れ、地位財・非地位財の追求、差別、偏見である。移民の家庭に生まれ、まだ見たことのない両親の国の偏見はもちろん知らない、生まれた国の差別は十分耐えてきた。育った国の差別にも鍛えられてきた(本誌「炉辺閑話2015」,「炉辺閑話2018」参照)。
この地球に差別のない国はない。これは2つの国の差別現実を体験した人しか断言できない言葉である。異国で生きる苦労は、当事者でないとわからない。その精神的な負担、難題に克服経験は1つの財産になり、それをバネに、ゼロからのスタートで今の地位財を得ているが、今も初心を忘れず、移民の共通点の真面目、忍耐、努力で生きていく。
移民は水のような存在で、逆らわず、柔軟性があり、謙遜で、人の嫌がる下へ流れていく。移民は3つのKで生活している。それは期待、機会、鍛える、ことである。信じるのは変えられぬ過去と、努力で変えられる未来である。移民子孫の多くは親以上の学歴を獲得し、特に優秀なアジア系の移民は先端分野に働き、移住国の成長に寄与し、国内の職を奪われることなく、財政を悪化させず、治安が悪くならない。国民としての三大義務の教育、勤労、納税を果たして初めて社会に認められる。
市民権は売り物ではないが、いくつかの国は多額な投資を担保に永住権がもらえる。確かに、国としては安全な選択である。失う物のある者は悪徳な、反社会的な行動に走りにくい。裕福な移民は移民先の国家財政への大きな貢献も1つの事実である。自由な往来がなければ、現代社会はもう成り立たない。2018年の統計では、世界の移民関連の送金は6900億ドルもある。今、世界中で年間2億人以上の移民が国境を越える。
英国:昔移民を出した国で、移民と産業は深い関係にある。英国は自国の産業を守るため、産業関係の装置、設計図の移民による外国への持ち出しを禁じた。しかし、移民の頭にある知識の持ち出しは誰も阻止できない。頭と心の真の財産で、その多くはアメリカ大陸へ渡っていた。米国の工業の発展は窃盗からできたと言える。この経験から今、米国は他国の先端技術のマネに敏感になっている。
英国をはじめ欧州の大規模な移民政策で、西洋文明の破滅が目に見えてきている。
オーストラリア:1901年から「白豪主義」ではあるが、1970年代から方針転換をし、アジア等から労働力、特に技能移民を受け入れる。2017年まで26年も連続した経済成長の要因は、移民政策の成功である。
米国:最大の移民受け入れ国であり、多様・寛容な移民立国である。移民の活力を成長の糧にして多様な人材を集めて、その偉大さの源泉で発展してきた。移民でできた米国でさえ、差別だらけの国である。1924(大正13)年、日本人移民を全面的に禁じ、「排日移民法」が施行された。日本移民排斥運動は欧州、オーストラリア、カナダにも広がった。いわゆる「黄禍論」である。
日本:移民の歴史も古い。労働力としての人の移動は室町時代から始まり、中世は奴隷として、輸出したこともあった。江戸時代は鎖国政策で、移民を海外に送り込むことがなかった。1885年にハワイ王国と移民条約である官約移民の歴史がある。ブラジルへの移民は1908年に始まり、約19万人の貧困農民が海を渡った。1923年、第一次世界大戦後の失業者、困窮者の打開策として南米移民を宣伝し、渡航費の全額補助で移民を送り込んだ。米国、ペルー、パラグアイの南米諸国も移民先であった。1929年の世界大恐慌でブラジルも失業者が増大し、1934年からの日本人移民の人数制限のため、農業移民・他の業種の移民の送り先は満州に変わった。第二次世界大戦後まで労働力が過剰で移民を送り出す側で、1950年代はその最盛期だった。
今の出生率で日本の人口を維持するためには、2030年までに毎年20万人の移民を受け入れる必要がある。外国人抜きには日本経済がもう回らないのが実情である。国の労働力確保のため、始まるのは移民政策であるが、いくら日本がそれを否定しても、実際には移民政策そのものである。日本が必要とするのは労動力である。しかし、忘れてはいけないのは、入ってくるのは生身の人間である。その実例はドイツにある。
移民政策の成敗は歴史に判断してもらうが、受け入れる側になった日本が忘れてはいけないのは、移民歴史に屈辱、悲しい1頁の「黄禍論」である。過去の歴史的な事実に目を閉ざす者は現在もみえなくなるという。それは自分の経験した差別の加害者になってはいけない。人種差別は大きな政治的な過ちで、日本はこれ以上差別社会への道を踏み出さないように祈りたい(無神論者の筆者に相応しくない表現ではあるが)。