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明智光秀の身長と近視[炉辺閑話]

No.4993 (2020年01月04日発行) P.8

篠田達明 (愛知県医療療育総合センター(元愛知県心身障害者コロニー)名誉総長)

登録日: 2020-01-01

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北里大学解剖学教室の故平本嘉助講師は、上腕骨長から身長を割り出す公式と肖像画から身長を推計する方法を案出された。平本説に従い岸和田市・本徳寺の明智光秀の肖像画より身長を計測したところ約174㎝となった。なお、戦国期男性の平均身長は160㎝弱とされる(片山一道著『骨が語る日本人の歴史』)。詳細については「医療史回り舞台(第305回)明智光秀の体格測定」〔整形・災害外科. 2017;60(12).〕に述べた。

光秀の肖像画で注目したのは近視に特有の両目を細める表情である。福知山市・御霊神社の光秀木像も両目が細い。光秀は若い頃から学問を好み万巻の書を読みふけり近視になったと思われる。少し離れると視界がぼやけて信長の表情を読みとれず、視力のよい秀吉に遅れをとった。1、2度、信長に足蹴にされたこともある(フロイス著『日本史』)。

晩年の信長は数々の残虐行為にふけった。その主なものを挙げると、元亀元(1570)年、伊勢長島一向一揆2万人を1箇所に閉じ込めて焼き殺した。その翌年、延暦寺を焼き討ちして逃げまどう僧侶ら3000人を殺戮した。

天正3(1575)年には越前一向一揆を壊滅させ、過酷な残党狩りを行う。この年、光秀は丹波国を平定したが、人質として丹波に預けた義母を信長の命で逆さ磔にされた。天正6(1578)年、荒木村重の忠誠を疑った信長は荒木一族120人を処刑し、家来と婦女子ら500余人を焚殺した。天正7(1579)年、家康の妻と長男信康が陰謀を企てたと疑い誅殺させた。

天正9(1581)年、伊賀惣国一揆が起こると9000人の伊賀勢を殲滅し、残る老若男女を皆殺しにした。同年4月、信長は琵琶湖の竹生島に参詣して安土城に帰ると、今夜は長浜にお泊りだろうと思い込んだ女房たちが物見遊山などで留守だった。激怒した信長は女房どもを次々に殺傷、間に入って詫びる長老たちまで成敗した。

織田家の行く末を危ぶんだ光秀は、大事な近視眼鏡を信長に踏み潰されたことをきっかけに天正10(1582)年6月に本能寺で謀叛を起こした。この顚末を『明智光秀の眼鏡』と題して小説化したが、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」に因んで菊池寛、新田次郎、山田風太郎ら12人の作家による『小説集 明智光秀』(作品社、2019年刊)にも登載された。

なお、大坪元治著『眼鏡の歴史』(日本眼鏡卸組合連合会、1960年刊)に、大阪府泉南には光秀の眼鏡が伝わるとあるが、詳らかでない。

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