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ゲーテを師とした男 相良守峯(上)【地霊の生みし人々(16)】[エッセイ]

No.4715 (2014年09月06日発行) P.72

黒羽根洋司

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-03-27

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  • ドイツ文学を志す人間はもちろん、ドイツ医学主流の時代に学んだ医師たちが、必ずその恩恵をこうむった辞典がある。診療録がカルテで、患者のことをクランケと符牒の如く呼び合った時代、それは医学生必携の書であった。博友社になる『独和辞典』である。その編纂者・相良守峯は鶴岡の人であった。

    文字の海へ

    東京帝国大学の助教授であった相良守峯が、木村謹治主任教授から辞典編集の依頼を受けたのは1937(昭和12)年のことである。それも期限つき、3年後が皇紀紀元2600年にあたるので、この祝祭にあわせて記念出版にしたい、という出版社の強い意向が入っていた。出版社では小辞典という目算らしかったが、ドイツ語を学ぶ対象が高等学校以上の限られた需要者では、そんな初級の本は用をなさない。語源のはっきりしない言葉はなかなかおぼえられなかった経験を持つ相良は、従来の辞典の欠点を示し、学術的編集の意味を説き、千数百ページにわたる辞典出版を企画させた。

    およそ辞典作りは、10数年かかるのが普通であるのに、指折り数えても2年9カ月しかない。取り組んでもついに出来上がらず消えてしまい、出版社も潰れてしまうという例も少なくない。そんな過酷な状況で、あらゆる言葉を集め、言葉と向かい合いながら取捨選択していくという、気が遠くなるほどの根気と体力のいる仕事が始まった。

    構想を練ることから始まり、語彙の選択をして、カード書きに入るのだが、ここで困ったのが送り仮名の問題である。まだ統一された当用漢字もできていない時代であったため、自分で送り仮名表をつくり、一覧してわかる基準をもうけた。それらを予定表と一緒に壁に貼り、だれが見てもわかるように配慮した。

    仕事場は博友社の2階に与えられていたので、助手は朝の10時から夜の10時まで交替で詰め、仕事をするようになる。相良も大学での講義が終わればまっすぐにそこへ出かけた。責任者である相良は収録する見出し語を選定し、いかに簡潔で、的確な言葉で説明するかに肝脳をしぼる。何度も推敲を重ね、できるだけ字数を削っていく、まさに実践と思考の繰り返しであった。

    スタッフとは毎日顔を突き合わせ、相談しながら仕事の統一をはかり、進行具合を予定表に書きこむのだが、表はしばしば書きなおされ、実行が遅れると助手の数が増やされた。

    辞典編纂はチームワークの結晶なのである。原稿は半分以上進むと校正にとりかかるのだが、辞典の場合、この作業がまた厄介である。原稿とおなじ労力と時間を食うので、原稿執筆と校正のバランスをとるために、さらに人手が必要となってくる。助手の数を20人に増やして、カード執筆をあげさせ、校正を重ねた。予定の期限は確実に迫っていた。

    辞典はいうならば文字の約束ごとである。語釈の正確さと統一性が辞書づくりの生命線であるから、一語たりともおろそかにできない。連日の仕事を終え、博友社の階段を下りると相良は文字の海から解放され、しばし呆然として力が抜けていくのを感じていた。

    昭和15年3月16日、2年9カ月の月日をつないで、1600ページの『独和辞典』が完成した。辞書を編集する人々を描き、映画化もされた、三浦しをんの『舟を編む』にこんな一節がある。「俺たちは舟を編んだ。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、豊穣なる言葉の大海をゆく舟を」。俺たちとは相良守峯と、この辞典づくりに関わったすべての人たちことである。そして、『独和辞典』という舟は、いまでもドイツ語という大海原で見事な航跡を残している。

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