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ゲーテを師とした男 相良守峯(下)【地霊の生みし人々(17)】[エッセイ]

No.4716 (2014年09月13日発行) P.68

黒羽根洋司

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-03-24

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  • 相良守峯は1895(明治28)年、鶴岡市に父守一、母慶の長男として生まれた。2人の姉と8歳下の弟がいたが、歳が離れていたせいもあり、幼少時は1人っ子のようにして育った。幼名を鈇太郎といったが、いつも鉄太郎に間違えられるので、その煩に耐えず、17歳の時に、郡長の許可を得て守峯と改名した。

    荘内中学で学ぶ

    今日の隆盛からは想像もつかないが、守峯が入学したころ、東北以北の中学校で、いわゆるサッカー部をもっていたのは、仙台一中と荘内中学だけであった。まだまだサッカーは物珍しく、一般には知られていないスポーツであった。この激しく動き回り、ひたすらボールを追いながらゴールをめざす競技が、少年の心を捉えた。練習は毎日行われ、日が落ちてグラウンドが暗くなるまで続いた。

    中学の5年になると、松島と仙台への修学旅行があり、その機会にサッカーの試合をやろうという相談になった。まだ鶴岡から新庄まで鉄道が伸びていなかったため、生徒たちは14里の道を歩かされた。夕方に鶴岡を発ち一晩中歩き続けて、翌朝に新庄へ着くという、体力をかなり消耗する旅であった。さらに仙山線も開通しておらず、走っているのが奥羽本線だけであった。必然福島まで出て、東北本線に乗り換えるというハードな行程となった。それでも初めて汽車に乗る者もあり、多感な中学生たちには、まさに修学の旅となった。

    仙台に着くと、守峯に不屈の精神を植えつけ、世の中への目を開かせる体験が待っていた。試合時間は1時間と決められ、両校の選手がグラウンドに進み出た。みると、仙台一中の生徒はみんな靴を履いており、対する荘内中学ではほとんどが裸足であった。靴も含めて、都会人らしい出で立ちの相手チームは、みるからにスマートで大人びて見えた。

    サッカーが靴を履いてやる競技だと、そのときまで知らなかった守峯たちは違反ではないか、とすら思った。アウェーでの試合というハンディは、むしろ守峯たちの闘志に火をつけ、負けられないという思いを強くさせた。結果は2対0で荘内中の勝利であった。

    サッカーは守峯に多くのことを教えてきたが、この他所での試合は、一丸となれば勝てる自信と、闘志をもって困難を突破した時に得られる充実感を学んだ初めての体験であった。

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