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大統領執務遂行不能、修正憲法25条[エッセイ]

No.5035 (2020年10月24日発行) P.58

小長谷正明 (国立病院機構鈴鹿病院名誉院長)

登録日: 2020-10-25

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1987年2月27日、大統領首席補佐官になったばかりのハワード・H・ベーカー(後に駐日大使)のスタッフ、ジェームズ・キャノンは、ホワイトハウスの一室で、大統領のスタッフたちから内情について聞き取りをした。そして、キャノンは衝撃的なことを聞かされ、ベーカーへの報告書を次のようにしたためた。

「彼らはロナルド・レーガン大統領がいかに無頓着で、不適格な人物かを話した。大統領は怠け者で、仕事に興味がないと。どんな短い文章やメモでも、スタッフが差し出す書類に目を通そうとしない。(執務室に)やってこようとせず、住居スペースで映画やテレビを見続けていたがった。……、スタッフたちは書類に勝手に大統領のイニシャルをサインしているようだ。本来なら大統領が署名するものにでも。スタッフたちの誰がサインできると指名されているのかと聞いたところ、長い沈黙の後、誰でもサインし、誰も指名されていないと返事が返ってきた」

この時期、米国と敵対しているイランとの武器密輸取引とその代金をニカラグアの反政府組織に与えるイラン・コントラ事件が露わになり、誰の意思なのか、大統領の関与などが問題となり、レーガン政権は危機的状態にあった。が、対応策を考える会議では、肝心要の大統領は集中力を欠いて、しばしば居眠りをしていることが観察されている。

順調にきた政権が、どうして急にこのような不可解な政策を取ったのかを、キャノンは知りたかったのだ。ホワイトハウスのカオス状態の根本的原因は大統領その人にあり、本人も、どこか調子が悪いと思っているが、自発的辞任などは考えられない。キャノンは合衆国憲法を紐解き、自分が仕えるのはレーガン大統領ではなく、ベーカー補佐官なのだと強く意識しながら、3月1日付の最優先勧告を補佐官に提出した。

「修正憲法25条第4節適応の可能性を考慮すべし」

大統領が職務遂行不能ならば、副大統領への権限移行も考えなければならない、ということである。そこで、最初のミーティングの時、ベーカーとそのスタッフたちは、大統領の言動、一挙手一投足を見守り、精神的問題はないかを注意したが、最終的に、これなら大丈夫と、ベーカーとそのスタッフたちは判断し、修正憲法25条は沙汰止みとなった。

アメリカ合衆国憲法修正第25条は、大統領が職務遂行不能になった場合の継承を定めたもので、第1節で大統領が死亡、辞職の場合は副大統領が大統領となる、としている。第2節は副大統領が職務遂行不能になった場合。第3節は手続きとその解除。そして第4節では、副大統領と閣僚の過半数、あるいは議会の定める機関の長の過半数が、大統領が職務遂行不能と判断した文書を上下両院議長に提出した時に、副大統領に権限が委譲される、と定めている。

ベーカー補佐官の在任中、レーガン大統領はゴルバチョフソビエト連邦書記長と会談を重ねて東西冷戦緩和を導き、失政もなく1989年1月までの任期を全うした。しかし、ロナルドはトランプ占いばかりで、政策はナンシー・レーガン大統領が決めていたと噂されている。夫人である。任期終了で退任後の1994年に自らがアルツハイマー病であることを公にしたが、大統領在任中は判断力に問題はなく、認知症ではなかったと、主治医は後に言っている。しかし、1987年春のこのエピソードからすると、ホワイトハウスのスタッフは既に知的能力低下の徴候を感じていたようだ。

米国では、重い病気に罹って職務を果たせなくなった大統領が辞職することなく、そのまま職に留まり続けて、国政が停滞してしまった苦い経験があった。

第28代合衆国大統領ウッドロー・ウィルソンはプリンストン大学総長を務めるなどの学者であったが、政界入りし、ニュージャージー州知事を経て1913年に56歳で就任した。タフで進歩的な理想主義者であり、米国の客船ルシタニア号がドイツの潜水艦(Uボート)に撃沈されたこともあり、第一次世界大戦を早く終わらせるためと、1917年に米国の参戦を決断した。1918年11月の戦争終結後は「十四か条の平和原則」を掲げてベルサイユ平和会議をリードして、今日の国際連合の前身となる国際連盟の創設を提唱した。

しかし、各国の利害が激しくせめぎ合うベルサイユ会議は紛糾し、調停に疲れ切った上にスペイン風邪に罹ったウィルソンは1919年6月にワシントンに戻った。だが、米国社会はインフレや人種問題で揺れており、議会には、欧州の国際問題に巻き込まれまいとする、モンロー主義が根を張っていて、国際連盟加入反対派の説得に、彼はさらに心身を削る日々が続いていた。そして、自らが全国を周って、国民に直接国際連盟の重要性を訴える遊説を行う決心をした。主治医キャリー・グレイソンは、彼の疲れ切った体調と過去に何回か軽い脳卒中を起こしていることなどから反対した。が、それを押し切って9月3日に、西部に向かって全国キャンペーンに出発した。

暑い季節に鉄の列車での長旅や、トンネルで客車に逆流してくる汽車の煤煙による喘息、大勢の聴衆がひしめく集会場での演説の繰り返しなどで、半月もすると、彼は激しい頭痛やめまいに悩まされるようになった。エアコンのない時代である。それでも彼は遊説続行に固執していたが、9月25日には西部ロッキー山脈の麓のコロラド州プエブロでよろめき、元来は雄弁家だったのに、話す言葉が不明瞭になって言い淀んだ。翌日、今度は顔の左半分が麻痺しはじめて口元からよだれが垂れ流れ、ハンサムだった顔が歪んで、グロテスクになった。さらに翌々日には左半身の手足も麻痺してきた。脳に血流を送っている、右の内頸動脈にできていた動脈硬化性の血栓が血流に乗って流れてゆき、進行性に脳梗塞を起こしたのだ。講和会議以来のストレスの連続の果てである。

講演旅行は中止になり、異常を察した新聞記者たちに向かって、同行の主治医は「大統領は大した病気ではない、器質的障害(組織の障害)ではなく、ほんのしばらく静養が必要なだけだ」と説明した。その大統領は、ワシントンへ戻る列車が町を通過するときに、人通りのない街角に向かって、あたかも大群衆に歓迎されているかのように手を振っていたという。

10月2日、ワシントンに戻ると、完全な左半身の麻痺と感覚脱失、意識障害、尿閉、呼吸困難と心不全などと病状はさらに悪化した。大統領は意識が少し戻ると、最初に妻のイーディスとグレイソン医師に、病気が重大なものならばその病名を発表しないように告げたという。グレイソンや他の著名な医師の進言は、「辞職は大統領の闘病意欲を失わせることになり、そして、昇格するであろう副大統領のトーマス・マーシャルを大統領はよく思っていない。今までも政治問題の相談に乗ってきたイーディス夫人が密かに代行すべき」だった。グレイソンは、大統領に精神的負担をかけないように、政務の書類や新聞を目に触れさせないように指示した。

大統領の病状に疑問を持った国務長官のロバート・ランシングが、国家の平穏のために大統領に直接会って相談したいと言ったところ、夫人は「私は今国家のことなど考えてはいません。夫のことを考えているのです」と答えた。ランシングは特別閣議を開き、大統領の病気と、憲法の規定から副大統領への権限移行を議論した。が、イーディス夫人は、誰が職務遂行不能だと判断するのだと言い、ランシングに認定を促されたグレイソン医師は拒否している。グレイソンは、10月6日に閣僚に対して、大統領は“神経衰弱、消化不良、並びに体力消耗”で、意識は清明なだけでなく、精神的にも非常にアクティヴであると医学的報告を行っている。また、マーシャル副大統領は大統領や夫人、その周囲との軋轢から、実質的な職務代行を尻込み、以降、儀礼的なことだけを行った。

公式には大統領は執務しているが、実態はベッド上でうつろに天井をみているだけで、まったく職務不能な状態であった。こうして、イーディス夫人は個人的野心ではなく、夫の回復を願って、ホワイトハウスを取り仕切り、後に合衆国最初の女性大統領だったと言われるようになった。

国務長官のランシングは、5年近くもウィルソンの右腕として活躍してきた政治家で、日本の石井菊次郎外務大臣と中国問題の取り決めをした「石井・ランシング協定」で、日本の歴史にも名を残している。しかし、国家の機能回復のためにとった彼の行動は、病床にあって地位に固執する大統領とその妻、側近には宮廷革命を画策している裏切り者と映り、不忠だとして翌年1920年2月に辞職に追い込まれてしまった。

大統領が曲がりなりに閣議を開いたのは、発作後7カ月の1920年4月である。この間、国政に関する声明や文書作成は、イーディス夫人と主治医と1人の側近だけで行っていた。年頭教書は、各省からの報告書を切り繋いだものだったという。こうして、麻痺して衰えきった姿を現したが、それでも、彼は辞職しようとはしなかった。

この間、ウィルソン大統領は「十四か条の平和原則」と国際連盟の提唱の功績で、1919年のノーベル平和賞を授与されている。しかし、彼の理想的な政策は実らなかった。米国が加わらなかった国際連盟は、国際秩序維持のための十分な力を発揮できず、やがて満州問題での日本の国際連盟脱退、ナチスの台頭などと、第二次世界大戦へと向かうことになる。

グレイソン医師は、最初の妻を亡くしたウィルソン大統領に、再婚相手としてイーディス夫人を紹介するほど親密であり、国や社会のことより個人的感情や事情を優先して、大統領の病状を国民の目からそらしてきた。その結果が、やがては第二次世界大戦に向かったと、医師の倫理面から糾弾する声もある。ウィルソン大統領はその後、少しずつ回復したが、かつてのようなエネルギッシュに国と世界をつくり上げていく姿はなく、無為無策のままで、1921年3月の任期切れまで職に留まっていた。そして、1924年2月に67歳で亡くなったが、死後25年経って、在職中の彼が職務不能に陥っていて、夫人と側近、グレイソン医師らによって病状がカモフラージュされていたことが明らかになった。

その後も、アメリカ合衆国では、1945年4月に第二次世界大戦終結目前にフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が脳出血で急死し、1963年11月にはジョン・F・ケネディ大統領が暗殺されている。いずれの場合も、合衆国憲法第2条によって、直ちに副大統領が昇格し、国家機能の空白はなかった。また、1950年代のアイゼンハワー大統領は、心筋梗塞や軽い脳血管発作などで、2度ほど短期間に職務をニクソン副大統領が代行している。ウィルソン大統領の前例や、このようなことから、1967年になって合衆国修正憲法25条が制定され、大統領が職務遂行不能になった場合の職務継承順位や、職務不能と認定する手続きなどが明文化された。

日本でも、人ごとではない……。

ロナルド・レーガンはこの法律に縁が深い大統領だったようだ。1985年7月には、大腸癌の疑いで全身麻酔で内視鏡検査を受けるときに、修正憲法25条第1節に基づいて、一時的にジョージ・H・W・ブッシュ副大統領(後に大統領:パパ・ブッシュ)が職務を執った。高齢の大統領の健康問題とその医療は避けて通れないことである。

そして、その4年前の1981年3月30日午後2時27分、1月20日に就任したばかりのレーガン大統領が、首都ワシントンのヒルトンホテルの前でピストルで銃撃された。銃弾は心臓をかすめて肺の奥深くまでとどき、大統領は吐血し、直ちに近くのジョージ・ワシントン大学病院に運ばれた。意識はあり、執刀する外科医たちに共和党員かと聞き、今日1日は皆共和党員との答えに喜んだという。弾丸摘出術は、当然ながら全身麻酔下で行われるので、その間の意識はない。緊急事態だが、継承順位1位のブッシュ副大統領は地元テキサス州に遊説に出ていて、ワシントンを留守にしていた。一報を受けて急遽、副大統領専用機エアフォース・ツゥは、この機としてはかつてない猛スピードでワシントンに戻りはじめた。

留守を預かるアレクサンダー・ヘイグ国務長官(元NATO軍総司令官、陸軍大将)は記者団から、「今、この段階で核のボタンは誰が握っているのだ?」と質問されて、副大統領が戻るまでは自分だ、自分がホワイトハウスを統制していると、上気した声で答えた。修正憲法25条第1節では大統領職の継承順位は、副大統領の次は上院議長、下院議長、そして国務長官なので、それを無視したと批判が上がった。が、実際には、その時点でソビエト連邦の原子力潜水艦が米国沿岸に接近しているのが探知されており、ホワイトハウスはそちらの緊急事態に即応しなければいけなかったともいう。1980年代前半は米ソが激しく軍事対立していた冷戦の最中であった。また、両院議長は辞任してからでなければ大統領職に就けない。しかし、この件は政争の具となり、政権内の対立から翌年にヘイグは国務長官を辞任している。

レーガン大統領の手術は6時20分に順調に済み、7時30分には意識を回復している。ブッシュ副大統領は7時にホワイトハウスに戻っていたが、職務継承することはなかった。

仮に、12歳程度の理解力しか持っておらず、国益より私利優先、衝動的な政策・外交を行う人物が合衆国大統領の座にいたとするならば、修正憲法25条第4節の適用は可能なのだろうか?

【参考】

▶ Mayer J, et al:Landside:The unmasking of the President,1984-1988. Graymalkin, 1989.

▶ Berg AS:Wilson. A CBS Co., 2013.

▶ Menger RP, et al:Neurosurg Focus. 2015;39(1):E6.

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