1967年に医師になり、やがて60年になろうとしている。どんな医者になりたかったか、どんな医者だったか、若い頃から現役時代までを振り返ってみたい。
外科系にはあまり興味がなかった。外科系は技術者的な要素が強いように感じていた。臨床医はある種の医療技術者には違いないけれども、僕は技術者としての医者にはあまり魅力を感じなかった。もちろん、特殊な技術の専門医が必要であり、重要な分野であるのは知っていたが、狭い分野での専門技術者的医者になる気持ちはなかった。
医学部卒業の頃、医者になるからには「考える医者」になりたかった。生意気なようだが、病気の本態は何か、なぜこんな病気になるのか、こんなことが知りたかった。大学での医学教育で知ったのは、いかに病気の本質がわかっていないかということだったからである。多くの病気でその本態が解明されていなかった。当時の内科教室は循環器から呼吸器、消化器、内分泌、血液疾患から神経系までほとんどすべての内科系疾患を対象としていた。だから卒業近くには漠然と内科に進みたいと思っていた。
内科に進みたい気持ちの中にはもう1つ、診断に至る思考過程が好きだったこともある。当時は今に比べると検査手段が乏しかった。CTやMRIはなかったし、内視鏡、エコー検査もなかった。こうした検査に頼ることはできなかった。病歴聴取の記載を見れば、その医者のレベルがわかると言われた時代である。どんな類の病気だろうかと考えながら病歴を聞き、診察しながらどこかに異常が見つからないか、異常が見つかればなぜか、どんな病気なのか、より正しい診断にはどうしたら近づけるか、どの検査をすべきか、鑑別すべき疾患は何か、などと考える。この思考過程が好きだった。
金沢大学には当時、武内教授の主催する第一内科と村上教授の第二内科があった。学生時代の講義や実習で感じた第一内科の印象は診断基準やマニュアルを重視しており、理路整然としていたが、僕にとって何となく魅力的ではなかった。一方の村上教授は臨床講義で教科書に書いてあるようなことはさらりと済ませて、この病気の本態は何かを重視した。ここまでは解明されているがその先がまだ判っていない、と世界の現状を説明した。病気の本質を追究しようとする姿勢が好きだった。
だから入局するなら村上教授の教室に入ろうと思っていた。が、郷里に帰るべきかどうか、迷ってもいた。郷里のほうから帰ってこいとの要望があるのは知っていた。帰るとすれば、一般内科医として郷里の病院に勤務するか、開業することになる。専門性の乏しい一般内科医として一生診療することになる。あまり気持ちは進まないけれども、義務としてそうすべきかとも思った。でも、やはり本音では帰りたくない。どんな分野になるにせよ、大学病院に残って専門医への道をめざしたい気持ちが強かった。
1年間のインターンが終わって1967年の春に第二内科に入局した。入局したとき、特定の病気に興味があったわけではない。あえて言えば、漠然と循環器系の病気に興味を持っていた程度だ。また、どんな領域で研究できるのかはわからないけれども、何かを追究する専門医になりたかった。臨床の研修をしながら徐々に専門科へと進み、興味のある分野での研究─どんなテーマに興味を持つようになるかはやがて具体的に判ってくるだろう─をしたいなと思っていた。
しかし、現実は甘くなかった。当時、第二内科の研究グループとしては動脈硬化と脂質代謝、循環器、内分泌、消化器、血液疾患、腎臓病などがあった。どの研究室に入りたいか、いちおう本人の希望は聞くけれども決めるのは教授で、配属されたのは動脈硬化と脂質代謝の研究グループだった。
新人の僕に研究室から与えられた仕事は、①患者のコレステロール値の測定(当時、第二内科で診療していた動脈硬化関連の疾患患者については、その血中脂質濃度は研究室で測定していた。ほかの人も分担して中性脂肪、βリポ蛋白、リン脂質など、別の脂質を測定していた)と、②研究室が医療面を担当していた某特養施設の入所者の診療の一部、特に褥瘡の観察と治療、そして③研究室全体で行っている研究の手伝い、だった。
これらすべてに興味を持てず、毎日がつまらなかった。患者のコレステロール値測定は研究室としての業務であり、後に博士の学位のために別の研究テーマが与えられた。具体的な内容は省略するが、僕自身、興味を持てるテーマではなくてあまりやりたくないが、学位をもらうためにはと、割り切って仕事を続けた。
臨床研修について述べたい。研究室での仕事は、平日は夕方から深夜にかけて、そして土曜・日曜日に行われる。日中は患者の診療が主な仕事だ。若手の医局員の臨床面での主な仕事は入院患者を受け持って診療することだ。ほかに教授、助教授、講師らの初診外来の手伝いと研究グループの再診外来の手伝いがある。
実習訓練の意味もあったのだろう、当時は入院患者の基本的な検査や処置は担当医が行うことになっていた。白血病の患者で血液検査の結果、輸血が必要だと判断すると、家族や親戚の人などに来てもらい、血液型、交差試験を行い、適合者から採血して、これを患者に点滴で注射する。ほとんど一日仕事だった。
幅広く病気に接することができたから内科の研修は勉強になった。が、当時はまだ制度的に新人を教育するシステムが確立していなかったから、各分野の専門家の助教授、講師、助手などが定期的に講義・指導してくれるわけではなかった。臨床上の指導は、ずば抜けて高い臨床レベルと豊富な知識を持っていた教授の回診時における指導が主なものだった。教授の厳しい指摘とアドバイスによって勉強したというのが実態だ。
それに、医局員は数カ月ごとの交代で関連病院に派遣される。市中病院は常に医者不足だったから、若手医師は貴重な戦力だった。インターンでの臨床研修を済ませて国家試験に合格したのだからと(専門医としては無理だが)一般的な内科医としては一人前として扱われた。市中病院では多くの入院患者を受け持ち、また外来診療も行っていた。
実質的には、若手医師は無給医局員(大学院生も事実上無給医局員)だった。入局時に「無給医局員というのは給料がないだけではない。休みがないことだと覚悟せよ」と先輩から言われた時代である。事実上、土曜・日曜日がなかった。関連病院に派遣中でも週末には大学に戻ってきて研究室の仕事をしていた。独身でも無給では生活できない。前記の関連病院での不定期の収入と、時折の市中病院の夜間当直料で生活費を得ていた。
大学病院での実際の生活は学生時代に思い描き、期待していた姿とは、研究面でも臨床研修でもかなり違っていた。それでも、自分なりに勉強しようと思っていたのだろう。「内科」「日本臨牀」「綜合臨牀」「医学のあゆみ」などの雑誌を定期的に購入していたし、横文字の論文も読まなければとLancet、NEJM、Circulation、DMW(Deutsche Medizinische Wochenschrift)などの雑誌の定期購読者でもあった(当時は、今に比べて洋雑誌は安かった)。が、実際は洋雑誌では全文内容まで詳しく読むことはほとんどなかった。せいぜいサマリーを読むか図表を見る程度だった。
研究は学位のためのものだったし、臨床面でも専門科への道筋を見出せずにいた。将来への具体的な見通しもなかった。このままでよいのか、と焦る気持ちはあった。かといって、ではどうするのか。別の方向へと行動するわけでもなかった。毎日をずるずる過ごしていた。不平不満を抱えながら、下宿へは短時間眠るのに帰るだけの生活を続けていた。