義太夫を習い始めて8年近く、大作「菅原伝授手習鑑 寺子屋の段」への挑戦を開始した。菅丞相(=菅原道真)の左遷後、忠臣の武部源蔵が、その子・菅秀才の命を守るために、自分の寺子屋に来た関係のない子どもの首を討つという、なんとも浄瑠璃らしい無体な内容である。この夏の発表会では、その冒頭部分10分足らずを語った。
ずっと床本(=台本)を読みながら語ってもかまわない。とはいえ、ちょっとは格好をつけたいし、客席の方を見たりする。何百回も練習してすべて完全に暗記している。はずなのだが、本番で語っていると、正しいかどうかがふと不安になる時がある。
大慌てで床本に目を移す。すぐにその部分を確認して語り続ける。だけれど、どうしてもわずかにタイミングがずれる。零コンマ何秒というほんの少しの遅れなので、おそらく自分以外は気づかない。それでも、あっちゃ~と思った瞬間に気が動転して、後の語りにいくらかの影響が出てしまう。
ど忘れ、というのとは違う。というのは、ほとんどの場合、合っているかどうかが不安になるだけで、実際には忘れてなどいない。どれだけたくさん練習しても、本番はやっぱり緊張するんでしょうなぁ。
義太夫語りってそんなに難しいのかと思われるかもしれないが、難しい。なにしろ節回しがものすごく複雑なのだ。そのせいもあって、いったん正しい節回しから外れ始めてしまうと、軌道修正が相当に困難になる。その恐怖心が最大の問題なのかも。
場数を踏んでくると、さすがにだんだんと事情がわかってきた。おそらく私の記憶の仕方に問題があるのだ。昔からそうなのだが、文章をまるまる暗記することが驚くほど苦手である。そのかわり、自分の言葉に置き換えてから覚えることが多い。
詞章を最初から言葉としてそのまま頭に入れたらいいのだが、どうしても意味づけをしてしまう。なので、たとえば語っている最中に、主人に「従う」というのが正しいのに、つい「仕える」という言葉が脳内に沸いてきたりする。そして、ありゃどっちやったかと不安になってしまうのである。
と、ここまで解析できたので、次からは上手くいくに違いない。と言いたいところだが、8年もやってるからそれほど甘いものではないということくらいわかるぞ。って、そんなことを威張ってどうするんや…。
なかののつぶやき
「義太夫語り、やればやるほど難しいということがわかってきました。名人の誉れ高かった四世竹本越路太夫が、その修業について、『一生では足りない。二生ほしかった』とおっしゃったというのは有名ですが、芸としてそこまで奥が深いということなんでしょうなぁ。なかなか思うように上達しませんが、だからこそ楽しいんやと開き直り気味のこのごろです」