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安岡章太郎の『蛾』─続・文学にみる医師像[エッセイ]

No.5090 (2021年11月13日発行) P.64

高橋正雄 (筑波大学名誉教授)

登録日: 2021-11-14

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1953(昭和28)年に安岡章太郎が発表した『蛾』(新潮社刊)には、「絶えず不安と焦燥になやまされている」主人公が登場するが、その原因を彼は、「病気で犯されて変型した脊椎が、どういう具合にか脊髄を刺戟しているのであろう」と考えていた。


もっとも、この主人公は「医者をあまり信じたがらない」男で、彼は医師に対する反発を、「彼等の治療の腕前や、薬の効能がどうであろうと、すくなくとも彼等を好意をもってむかえる気にはなれない」と語りながら、K大学病院の整形外科の医師の態度を、次のように伝えるのである。

この病院の主任医師は、主人公の自覚症状を聞くと、直ちに「君はカリエスだよ」と言った。多分そんなところだろうと予想していた主人公が黙って立っていると、その医師は「君は僕の言うことに不服か。……よろしい」と言って、服を脱ぐように命じた。そして、大学生を7、8人呼び集めると、「いいか」と言って主人公の背中をハンマーで叩き、学生たちに「この骨は、今後、上へ上るか、下へ下るか?」などと、主人公には無意味な試問をしながら、主人公が典型的なカリエス患者以外の何者でもないことを説明した。

さらにこの医師は、「君がこの部屋に入ってきたとたんに、もうおれには君の病気がわかったんだぞ」と言ったのだが、こうした医師の態度について主人公は、格別無礼な例外ではなく、「彼は単に率直であるにすぎないのだ。どんな医者でも心の中ではこの主任と同じである。金銭を除いて彼等の仕事のよろこびは大部分こんなところにある」と語る。

その上で主人公は、「結局のところ私が医者を好まないのは、私の内部を覗かれるような気がするからであろう」と結論しているが、ここに描かれているのは、昭和20年代には診察の基本的なマナーもわきまえない医師もいたのか、と思わせるような傲慢な医師である。したがって、この整形外科医に主人公が反感を抱くのは当然としても、医師の喜びが金銭以外は自分の診断の腕を自慢することであるというのは、いかがなものであろうか?

医師の喜びとしてまず思い浮かべるのは、治療が奏効して患者・家族が喜ぶ顔を見た時ではないかと思われるが、この主人公はそうした医師の喜びに思いを馳せることはない。また、この主人公は「私が苦痛を訴えるのは自分に『痛さ』があることを他人に知らせるためのもので、他人にそれを和らげてもらいたいのじゃない」とも語っているが、むしろ多くの患者は、痛みを和らげてもらうことをこそ望んでいるのではないか?

その点、「苦痛を友とすることだってあるものだ。頭痛は私を夢みごこちにする」と語る主人公は、痛みに対していささか特異な心性の持ち主ではないかと思われる。

そんな主人公が最も苦手としていたのが、彼の家の斜向かいに住む芋川医師である。

芋川医師は2年前にこの町に引っ越してきたのだが、来る早々近所中の評判になった。それは、芋川医院という門前の看板が無暗に大きく、また、門から玄関までの間に大小6個もの呼鈴が仕掛けられていたためである。

芋川医師は「痩せた長身の青白い人」で、実際の年齢より10歳以上若い32、3歳にしか見えなかったが、「芋川医院があまり流行していない」ことは確かで、しかも、芋川医院には奇怪な評判が立ちはじめた。それは、芋川医師は、海軍の軍医を務めた人で、内科・外科・小児科何でもやるとの触れ込みだったのに、「この3、4カ月というもの如何なる患者をもみな拒絶して、往診宅診いずれも行わない」というものであった。

たとえば、C夫人によると、ある晩4歳の男児が咽喉を詰まらせて呼吸困難を訴えたので芋川医院に駆けつけたところ、芋川医師は、それは扁桃腺炎であると言って、アデノイドの症状や手当の方法を説明するだけで、いくら往診を頼んでも一向に立ち上がろうとしなかった。挙句の果ては、不安に駆られて苛立つ夫人を玄関に残したまま、「今晩、私は眠いので失礼します」と言って、奥の部屋に消えてしまったのだという。ほかも似たような話があって、「いずれも診察を断る理由として、眠いとか、だるいとか、甚しいときは単にメンド臭いとか、漠然としたことばかりが殊更えらばれているらしい」。

そんな噂を聞いた主人公は、芋川医師には医師として働く以外に収入源はないのだから、「単なる気まぐれと見るには、あまりに奇怪」と思っていたが、ある夜、窓を開けて読書していた主人公の右耳に、蛾が飛び込んできた。そして、鼓膜の上を右往左往する蛾に急き立てられながら芋川医師のことを思い出した主人公は、芋川医師の「患者をワザとイライラさせて喜ぶ気持」を、次のように想像する。「きっと一と旗、上げてみせる」と妻や母親に約束したのに、いざ医院を開いてみると誰も患者はやってこない。家の者にも近所の人にもそれが恥ずかしくてたまらず、また、自分の腕が悪いと思われるのも心外で、日夜悩みぬいた結果、あんな悪趣味に喜びを感じるようになったのだ……。

あれこれ試みたものの蛾を取り出すことができなかった主人公は、遂に芋川医院を訪ねるが、大きな看板のかかった門は歪んで半分開いたままだし、呼鈴の大半は壊れていた。主人公が来意を告げると、芋川医師は「ほほウ、それは驚きましたな」と言いながら診察室に案内し、耳の中を覗いて、「うん、まだピンピンしている。これなら大丈夫だ」と言ったかと思うと、大声で妻を呼んでボール紙の筒と懐中電燈を持って来させた。そして、ボール紙の筒を主人公の耳にあてて懐中電燈で誘導すると、長さ2、3分の小さな蛾が飛び出してきたというのが、この話の結末である。


このように見てくると、漠然とした理由で診察を断り続ける芋川医師は、壊れた門や呼鈴を放置していることなども考え合わせると、患者を苛立たせて喜ぶというよりは、何らかの精神疾患を発症していた可能性が高いように思われる。ただ、それにしては、なぜ主人公だけは快く迎え入れたのか?主人公への対応だけで見れば、大学病院の医師より芋川医師のほうが遙かにまともではないか、といった疑問も生じるのだが、あるいは芋川医師は、蛾が耳に入ったことを、「私のようなくだらない男にしか起りえない事件」と語る主人公に、自分と同質のものを感じたのかもしれない。

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