私が本連載に執筆するきっかけは、2014年10月、福島県立医科大学医学部に新設された放射線災害医療学講座の初代主任教授に就任された長谷川有史先生にかけた電話であった。東日本大震災、東京電力福島第一原発事故後、長谷川先生の被ばく医療、特にリスクコミュニケーションに対する真摯な取り組みに敬意を表し祝意を伝えた。その時に執筆を依頼されたのである。その場の状況から快く引き受けたのだが、後で困ってしまった。「原発事故後の福島県の医療の現状と問題点」という本連載のテーマは、福島県の医療を俯瞰する目、見識を持ち合わせていない私には荷が重すぎると思った。しかしながら、南相馬市の2000戸を超える仮設住宅団地のすぐそばで、やはり仮設の診療所を構え、仮設住宅で暮らす地震・津波・原発事故被災者の診療に当たる私だからこそ、そして、私自身が原発事故被災者だからこそ書けることがあるだろうと、筆を執った。福島県全体から見れば非常に狭い範囲の小さなことではあるが、東日本大震災、福島第一原発事故の前後、私自身と私の周りで起こったことを「つながり」と「生きがい」という視点から考察したい。
東日本大震災前、私が勤務していた南相馬市立小高病院(一般病床48床、療養病床51床)は、脳血管障害による運動障害や嚥下障害があり、リハビリや胃瘻など経管栄養を必要とする患者が多く入院していた。2008年4月に私が院長に就任した時、それまで6人いた常勤医が4人になり、医師不足と経営状況の悪化により同年6月から開かれた市の「南相馬市立病院改革プラン策定委員会」では、小高病院を規模縮小して存続する案、南相馬市立総合病院に統合し廃止する案、有床診療所と介護老人保健施設に転換する案などが検討された。同年10月には常勤医が3人になり、いよいよ存続が困難になった時、私はできるだけ小高区の人々と話し合う機会を持ち、病院の状況を説明した。そのような中で、「小高病院存続のために、自分たちにできることはないか」という声が上がり、「小高病院を守る会」が発足した。守る会の方々には、存続を求める署名運動、地域医療を考えるフォーラムの開催、病院敷地内の清掃など、次々と小高病院を支える活動をしていただいた。その後も病院の苦境は続いたが、何とか病院を存続できたのは、病院職員と小高区の人々とのつながり、支え合いがあったからだと思う。
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