ずいぶんと前から定年後は晴耕雨読と決めていたはずやのに、なんとなくぐずぐずしてて始められず。だったのですが、7月の末からいよいよ始動とあいなりました。
家の裏に50坪ほどの畑がある。はずれとはいえ大阪市内なので、なんとも贅沢だと言われることが多いのだが、これにはちょっとした因縁がある。バブル華やかなりし頃、その土地が売りに出されそうになった。とんでもないことに、細い私道しかついていなかったにもかかわらず、だ。おかしな輩に買われたりしたら何をされるかわからない。ということで、地主さんに談判して、お安く買い取らせてもらったのである。
およそ半分が畑になっている。新鮮な野菜が採れるのはいいが、固定資産税を考えたら、このキュウリ1本になんぼかかっとんねん、と言いたくなるような農地だ。
残りの半分には、イチジク、栗、ザクロ、夏みかん、ブドウなどが何ら脈絡なく植えられている。季節になれば美味しい果実が食べられる。と言いたいところなのだが、手入れが悪いせいか、収穫は微々たるものだ。何故かイチジクだけはやたらとできるのだが、そうたくさん食べられはしない。
どちらも、同居している母親がそれなりに管理していたのだが、寄る年波には勝てず、ここ2~3年はほとんどほったらかしになっていた。なんとかしたかったのだが、ことあるごとに意見が衝突するので、家庭内平和のために口出しも手出しもできずにいた。なので、草木が旺盛に生い茂る状態に。まずは、その整備から開始した。
きわめて規則正しい生活をしている。5時前に起きて血圧測定、そして瞑想。朝ご飯を食べて6時に家を出て、半時間ほど歩いて公園でラジオ体操。7時過ぎに帰宅して小休止をとり、いよいよ農作業である。
7時半頃からとはいえ、すでに炎天下だ。最初のうちは半袖半ズボンでやっていたのだが、草や枝で生傷が絶えないので、長袖長ズボンへの変更を余儀なくされた。やたらと暑くて、1時間からせいぜい1時間半しか作業できない。農家の人でも、いまの季節だと9時以降は働かないとのこと。そらそうやわなぁ、人間には限界があるわ。
なので、えらそうに晴耕雨読と言っても、夏の間の「耕」はたかが知れている。しかし、いまやらねば秋まき野菜に間に合わぬのだから、がんばるしかない。道具だけは結構揃っていて、草刈り機、小さいチェーンソー、剪定ばさみ、スコップ、レーキなどを駆使して粛々と作業を進めた。
地球上の生命が維持できているのは、光合成のおかげである。ありがたいことだが、その勢いは凄まじいの一言だ。農地一面が文字通り草で覆い尽くされ、なぜか、やたらと南天の木が生い茂っていた。南天がバカほど赤い実をつけるのはダテではない。
草の下には、どうしてこんなものがここにあるのだというようなガラクタやゴミが潜んでいた。そんなものの片付けもしながらであるが、草刈りや木の枝落とし、じゃまな木の伐採などに2週間もかかった。総所要時間として20時間弱といったところだ。その成果をご覧いただきたい。
直径2メートル、高さ1.5メートルにもなる草木の山だ。乾かして燃やしてやろうかと思ったのだが、法律で禁じられているらしい。なので、畑の隅で堆肥にしてから用いることに。と、こんな感じで、すっかり気分はファーマーになっとるんですわ。
始めたばかりやのに、何が真髄やねん!と思われるかもしれない。ちゃうんです、これは築地書館から出されてる本のタイトルなんです。サブタイトルに「老い・病・トラウマ・孤独を癒やす庭」とあるように、ガーデニングや菜園のような土に触れる営みが、いかに精神衛生的に優れているかを解説した本である。
幸いなことに、とりあえず癒されねばならないようなことはないのだが、草木や土をいじっていると何だか嬉しくなってくる。たった1カ月程度でえらそうにと思われるかもしれないが、クソ暑くても自然にやりたくなってくるのが不思議だ。やればやるだけ少しずつだけれど計画通りに進んでいくし、小さな工夫をするのも愉快である。
作物をつくり始めると、もっと手間がかかるし、思い通りにいきませんよと脅されている。確かにそうなのだろうけれど、それはそれで面白そうだ。いま思案中なのは、秋になって何の種を植えるかである。
以前から晴耕雨読と考えていたのだが、ふと気づいたことがある。それは、野菜があまり好きではないということだ。そやのになんで農作業やねん、と言われそうだが、作った野菜を食べることより、なにしろ農作業がやりたかったのだから仕方がない。
我ながらアホとちゃうかという気がしないでもない。しかし、自分で作った採れたて野菜はとても美味しくて、野菜好きになるかもしれん。などということを考えながら農作業超初心者の生活が始まっとります。またそのうち報告しますんでお楽しみに!