阿片戦争(1840~42)で英国の武力に屈した清国の屈辱と惨状は国際社会でも深刻に受け止められ、日本は、1912年のハーグ阿片条約をはじめ4つの国際条約を批准していた。
1932年、関東軍の謀略による柳条湖事件を機に中国の東北3省に傀儡国家・満洲国が設立された1)。ところが満洲国の政府とその実権を握っていた関東軍は政府の財源にしようと阿片を専売とし、阿片窟を公認としたため、首都ハルビンをはじめ主な都市には阿片窟がいずれも500軒を超し、麻薬販売店が100軒を超した。“阿片窟”とは阿片を売り吸煙させる場所で、多くは売春宿を兼ねていた。そこでの営業許可手数料と阿片の売り上げは政府の歳入の大きな割合を占めるようになった。満洲国の設立は、初めに阿片ありき、であったのである。傀儡とは言え独立国家だから日本の法律は適用されず、実権を握っている関東軍が“法律”だった。
阿片癊者の数は90万人(「癊」は嗜好が高じて中毒になる意)、モルヒネやヘロインによるモヒ癊者、ヘロ癊者を加えると111万人にのぼった2)。
注射器や針を消毒しないまま1回2銭でモルヒネ注射を打たれ、注射の跡が化膿し、全身がかさぶただらけになったモヒ癊者が、モルヒネの気が切れ、もがき苦しむ姿があちこちでみられた。血液を介する感染で梅毒や季節外れのマラリアが流行した3)。
1935年、満洲国政府は、慢性麻薬中毒患者の治療のためハルビンに国立の戒煙所(「煙」は阿片吸煙の意)を開設した。阿片を専売にしたのは財源にするためだが、労働力も必要だったから政府の本音は、元気で阿片の吸煙を続けて欲しかった。しかし、重症患者は増える一方で、すべての患者が入所できる訳ではなかった。それでも最初の9カ月間に、阿片またはヘロインの吸煙者263人、モルヒネまたはヘロインの皮下または静注使用者233人、計496人が入所した4)。
こうした状況をみて満洲国の役人の多くは、「日本人は中国人に阿片を吸わせ、満洲にいる中国人の滅亡を図っている」と真顔で言い、それが真実と受け止められる状況であった。
1937年、ジュネーブで開かれた国際連盟の会議で米国の代表フラーは、満洲では阿片の生産が増大しつつあり国際社会に果たす義務が無視されている、と発言した。
関東軍は満洲国の財源不足をさらに阿片で補填しようと、遼寧省の西に隣接する熱河省に目を付けた。ヒトが阿片を連用すると耐性が生じ、量が増え依存状態に陥ると離脱症状の強さに耐えかね、阿片を得るためには手段を選ばなくなるが、国や軍の場合も同じであるのは以下に見ていくとおりである。
熱河省の阿片は良質で、関東軍が侵攻の機会を狙っていた中国の華北(天津・北京)に勢力を張る張学良軍の財源になっていた。また、良質の阿片を天津の市場に投入することにより、蔣介石軍が資金源としていた雲南産の阿片を駆逐する狙いもあった。さらに、当時の満洲国のケシの産地は熱河省のほか満洲の南東部で朝鮮・ロシアと接する東満地区だったが、この地区のケシは抗日武装ゲリラの資金源で、関東軍は、その資金源を断ちたくはあるがケシは欲しい、というジレンマにあったため、熱河省のケシを一手に管理できれば、東満地区のケシ栽培を禁止し抗日武装ゲリラの資金源を絶つことができた。つまり、熱河省の阿片を手に入れることで、満洲国の財源確保だけでなく、張学良軍、蔣介石軍、抗日武装ゲリラの財源を絶つという効果が期待できた。
関東軍としては熱河省の西に隣接する蒙古や華北に侵攻するには、その地に群雄割拠する大小軍閥の懐柔、寝返りのための工作資金や、彼らに提供する軍備、軍資金から後方攪乱まで、巨額な謀略資金が必要だった。
満洲国が設立された翌年、早速1933年2月23日、関東軍は熱河省に侵攻するがその際、参謀長・小磯國昭中将(東條英機首相の次の首相)は、ケシの耕作地を荒らさぬよう十分な配慮を望むと訓示した。関東軍には阿片工作班が同道し阿片を買い取り、追い落とした地元軍閥・湯玉麒の阿片徴税権を引き継ぐ形で阿片税を徴収した。しかし、刀でおどし軍用犬をけしかけ、徴兵免除、税の減免といったアメとムチ、飛行機からのビラ撒きでは、栽培も買い取りも思うにまかせず熱河阿片は、北支那方面軍との争奪戦、軍同士の暗闘にまで発展した。
混乱する阿片市場を効率よく支配すべく、奉天(現・瀋陽)特務機関長・土肥原賢二少将と関東軍参謀副長・板垣征四郎少将は、1935年9月、新京(現・長春)の満洲国通信社の社長・里見甫に白羽の矢を立て説得した。里見は中国でジャーナリストとしてスタートし、阿片市場に精通、蔣介石政権から青幇に至るまで中国国内に強力な人脈を持ち信頼されていた5)。
1937年3月初めのある日、満洲国実業部総務司長の岸信介(後の首相)は、主計処長の古海忠之を伴い里見を訪ねた。関東軍参謀長・東條英機からの伝言で、熱河阿片の販路拡大を頼むというのである。
関東軍から里見への阿片の販売促進依頼は2度目で、1度目から1年半しか経っていない。4カ月後、関東軍はさらなる阿片を求めて内蒙古の察哈爾省に侵攻するが、そのための軍資金が必要だった。
内蒙古(現・内モンゴル自治区)は自治独立志向が強く、その中心人物が国王の徳王であった。もともとケシの栽培が盛んで阿片が豊富な地域であったから、阿片に目のない関東軍垂涎の地であった。関東軍参謀の田中隆吉らは蒙古族の軍人・李守信に武器・弾薬・軍費を与え、謀略部隊を組織させ徳王を担ぎ出し1936年11月14日、阿片の中心地、蒙古西部の綏遠に攻め込ませた。しかし、中国側のスパイが何人ももぐり込んだ寄せ集めの蒙古軍は中国正規軍の前にあえなく敗退(綏遠事件)、関東軍の思惑は外れ、阿片はしばしその手から遠のいた。
1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに7月27日、日中戦争(支那事変)が始まった。関東軍は激戦地にそっぽを向いて、どさくさ紛れに8月4日、先遣隊が熱河省から察哈爾省に侵攻、参謀長・東條英機中将が指揮する第1師団の歩兵第1連隊と第3連隊を主力とする東條兵団は27日に張家口、9月13日に大同、10月14日に綏遠、17日に包頭と、蒙疆地区(内モンゴルのうち旧察哈爾省・綏遠省一帯を指す)をまたたく間に制圧した。張家口を占領したのが8月27日、9月4日には察南銀行と傀儡政権・察南自治政府が設立された。
東條兵団が蒙疆に侵攻する3カ月前の4月頃、関東軍は満洲中央銀行の敏腕の金融工作員数人を蒙疆地区に潜入させ、この地区に侵攻したとき、まず真っ先に乗っ取るべき金融機関とその財産、通貨交換の段取りと、準備すべき新通貨の量などの情報収集に当たらせていた。
関東軍が察哈爾省に侵攻する1週間前の7月30日までには、阿片買い占めのために用意された新通貨8000万円が察哈爾省との国境に近い、熱河省の首都・承徳に到着していた。関東軍の第一線部隊と一緒に突入した金融工作員から、完全占領という無線電話を受けると同時に、承徳に待機していた小型民間機が新紙幣を積んで張家口との間を往復した。
10月1日から新旧紙幣の交換が始まり、察南自治政府による阿片の買い付けが始まった。馬車や手押し車に阿片を積んだ農民が列をなし、貨車4輌分、現在の末端価格で数千億円の阿片が集まった。
包頭の占領を終えた後の11月22日、占領地の3都市に設立された傀儡政府と銀行をそれぞれ統合する形で、蒙疆連合委員会(後の蒙古連合自治政府)と蒙疆銀行が発足した。国際的な禁制物質で監視の目が厳しい阿片の買い入れ窓口を、日本国とも関東軍とも関係ない蒙古連合自治政府という地方組織1つに絞り、その収入が関東軍にそっくり入るシステムがこうしてでき上がった。
盧溝橋事件という偶発的発砲事故をきっかけに日中戦争が始まったとされているが、関東軍はそれを想定し、かねてからの準備に従って、事件が勃発するや蒙疆に侵攻、手回しよく巨額の闇財源を手にしたわけである。座視すれば、満洲国の財政建て直しに必要な財源を、北支那方面軍や上海派遣軍に横取りされかねなかった。
以上のマスタープランを作成した中心人物、大蔵省出身で満洲国国務院総務長官・星野直樹(後に東條内閣書記官長)は、極東国際軍事裁判でA級戦犯として起訴され終身禁固刑を受けたが、1958年に釈放された。
混乱する天津の阿片市場を効率よく支配すべく里見を説得した前述の土肥原賢二と板垣征四郎は、当時の関東軍参謀長・東條英機とともに極東国際軍事裁判で死刑の判決を受け、絞首刑に処せられた。
岸信介とともに関東軍参謀長・東條英機の伝言を携え、熱河阿片の販路拡大を頼みに里見を訪ねた古海忠之は戦後、シベリアに抑留され重労働を課せられたが、後に中国政府から禁固18年の刑を受け撫順刑務所(後の撫順戦犯管理所)に服役、帰国したのは1963年であった。
対モンゴル友好工作機関として創設された善隣協会の紹介で、国王・徳王の侍医として蒙古に渡り、首都・張家口の北北西360km、草原の中にある西スニットの診療所で医療に従事していた医師がいる。吉福一郎である。以下は、彼が『わが鎮魂歌─モンゴル戦線秘録』として書き残した東條兵団の足跡である6)。
この医師は蒙古軍の命令で、蒙疆に侵攻した東條兵団との戦闘で手や足を切断せざるをえないような重傷患者の治療に当たっていたところ、「徳王は、『先生、蒙古人は手足を失うと放牧民である彼らは明日から職を失うのです。出来るだけ助かるものならお願いします』と目をうるませる。彼の心情はいまもって私の胸を痛める」。阿片を目的に侵攻してきた東條兵団と戦って傷ついた部下の行く末を案ずる徳王の心情を思ったのであろう。この医師は日本人だから東條兵団が侵攻したとき、どちらの軍の命令に従うべきか迷うところだが、彼は「すべての名利や打算を捨てて“大きな目的”に向かって自らを試すんだ」という前川坦吉・西スニット班長の考えに従っていた。徳王から「大変すまないことをしました。あなたの診療所やご家族の一切の家財道具を私の部下が略奪してしまったようです。何とも申し訳ない」と謝られ、「そんな心配はいりません。戦乱の中ではよくありがちのことです」と答えた。日本人なので蒙古軍の敵と見られたのであろう。
以下「 」内は、同じく上記医師・吉福一郎の手記『わが鎮魂歌』の中の「血で血を洗う惨劇」の項からの引用である。
トラックを連ねて300km、「熱河の承徳から延々と続く東條兵団の大部隊の去った後のモンゴル地帯は、昔のままの静かな草原に帰っていた。しかし、モンゴル地帯から漢民族化の地帯に入る頃、激しい戦乱の跡がまざまざと見せつけられる。草原のそよ風にさらされて人馬は道路の両側に倒れたままだ。
“惨劇”の舞台は張家口に入る手前30km、城壁に沿って柳が生い茂る城郭の街・萬全で、時は東條兵団が包頭を制圧し終えた1937年10月17日以降間もない日であろう。
街は異常に静かで人影は全くない。城内に入っても静かだ。子供が2人ポカンと突っ立って、そばに白髪の老人が愕然としていた。何となく城内に血の臭いが漂っていて不気味であった。私達は医者だから心配するな、と説き伏せて事情を聞いてみた。私達はびっくりした。老人と子供だけを残して、日本軍が住民を皆殺しにしたということであった。遺体は城壁の四隅に運び込んだらしい。理由はこの萬全県城にスパイが潜入したらしいということだけらしかった。何ということであろうか。2人の子供は涙を流しもしないし、老人もうつろな眼で私達を見つめているだけだった。なぐさめる言葉もない。ポケットから煙草の一箱を老人に与え、子供等の頭をさすってやるしか私には術はなかった。
昨夜、この野蛮な事変が起こったのであった。夜明けとともに騒ぎは一層激しくなり、虐殺はエスカレートしていった。路上で逃げ回る者。追いかける者、誰が何を叫んでいるのか、さっぱりわからない混乱の街になっていった。殺す者と殺される者との叫びが交錯し、射たれたり刺されたり斬り殺される犠牲者が増え、老若男女の区別なく殺されていった。タバコを吸いながら老人は話を続けた。
『息子の嫁は子供を抱いたまま銃剣で刺された。息子は吹き出す血でべっとりなった嫁を城壁まで運ばされていった。そして城壁のところで息子も突き刺された……』
死体が増えてくると部落の若い者達に荷車に積ませ、城壁の隅まで運ばせると、彼等もその場で刺し殺された。
城壁の四隅に私達は行ってみた。どこも血の海であった。中には半殺しのまま捨てられ、うめき声を上げている人もいたが、手当てのかいもなく死んでいった。
事件の主人公でない私たちは、この時ほど自分たちの無力を痛切に感じたことはない。」
城郭都市にヒトを閉じ込めて城門を閉じれば、中で何が行われているかもわからないし逃げ場はない。そうは言っても蒙疆地区で、城郭都市と言えるほどの街は萬全くらいである。ということは前述の、東條兵団の侵攻前に察哈爾省に潜入させた敏腕の金融工作員によって確認済みであったろう。逃げ場がないから刺殺に向いているというのも計算済みであった。
日本陸軍では初年兵や戦場経験のない補充兵の戦場における教育の総仕上げが「刺突」訓練で、中国人の農民や捕虜を小銃に装着した銃剣で突き殺させる訓練である7)。この刺突訓練は1932年頃にはほぼ定着していたとみられる8)。目隠しをしないでやるので、中国人は必ず侵略者への憎悪で燃え上がりそうな目で「日本鬼子」(リーベングイズ、日本人の鬼め)と叫んだ9)。
陸軍第59師団の師団長・藤田茂は1945年3月、将校全員を集めて、以下のような訓示を行ったが10)、彼は騎兵第28連隊長の頃、1939年1月中旬にも中国戦線で将校全員を集めて、まったく同じ内容の訓示を行っている11)。
「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない。之には銃殺より刺殺が効果的である」。そして1945年6月、彼自身が命令し、陣地構築に使用した済南俘虜収容所の捕虜600人以上を6月15日以後、初年兵教育用に刺殺させた12)。彼は戦後シベリア抑留の後、中国の撫順戦犯管理所に移され1956年6月、禁固18年の判決を受け帰国したのは1958年である。
東條兵団の人数は5千人くらいはいたから全員城内に入る訳にはいかない。したがって、上述の虐殺は初年兵や補充兵の刺殺訓練として、阿片収奪作戦に含めていたものであろう。
「日本の支配は、日本軍の武力による支配であり、残酷な住民虐殺による支配であった」13)を地で行くような所業であった。
【文献】
1)江口圭一:日中アヘン戦争. 岩波書店, 1988, p44.
2)倉橋正直:日本の阿片戦略. 共栄書房, 1991, p108.
3)星崎相陽, 他:慢性麻薬中毒者ト「マラリア」ニ就テ. 満鮮之医界. 1935;(170):25-37.
4)田中直介, 他:阿片隠者の医學的調査. 五學と生物學. 1942;2:256-60.
5)内藤裕史:薬物乱用・中毒百科. 丸善株式会社, 2011, p328.
6)吉福一郎:わが鎮魂歌─モンゴル戦線秘録─, 思い出の内蒙古─内蒙古回顧録. らくだ会本部, 1975, p280-302.
7)吉田 裕:日本軍兵士─アジア・太平洋戦争の現実. 中央公論新社, 2017, p109.
8)朝日新聞社山形支局:聞き書き ある憲兵の記録. 朝日新聞社, 1991, p56.
9)朝日新聞社山形支局:聞き書き ある憲兵の記録. 朝日新聞社, 1991, p58.
10)藤田 茂:1945.
http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2014- 07/07/content_628073.htm
11)藤田 茂:1939.
https://blog.goo.ne.jp/yshide2004/e/6e99406248e1fd07a18bc34834ee3e50
12)済南俘虜収容所:1945.
https://machikiso.hatenablog.com/entry/2013/ 06/11/235655
13)江口圭一, 編著:資料 日中阿片戦争期阿片政策. 岩波書店, 1985, p72.