私が勤務している地域の中規模中核病院の救急入院患者の大半は、70〜80歳以上である。発熱、意識障害、体動困難などの症状を訴え、この状態では施設や自宅では看られないという理由で救急搬送されてくる。患者本人が「病院へ連れて行ってくれ」という意思を示すよりも、家族やかかりつけ医など周りの判断で病院での治療を望んだというケースが結構多い。こういう患者は、しばしば既に多臓器の障害を合併しており、入院後せん妄状態になって、「家に帰りたい」と叫んで病棟看護師を大いに困らせる。昨今では、もしコロナ陽性が検出されれば、その負担は倍増する。既に老化や疾患のために臓器障害が進んでいる場合は、看取りとなるケースも少なくない。
患者が自ら判断し意思を示せる場合でも、こういう場合がある。疾患が余命2〜3カ月と予想される進行がんであっても、家族が本人への告知を望まず、何とか入院治療を継続して欲しいと願う。この状態では家では看られないし、何よりも本人にショックを与えたくないと思う気持ちからか?
わが国の医療の“特徴”だと思うが、特に死期が近い高齢者に対しては、家族、医療者ともに本人の意思や気持ちよりも、周りが“忖度”して、いいように“事を運ぶ“ことが多かった。真の「個人主義」が土壌に根付いていない。平均余命かそれに近い年齢に達した人間が、自分の死についてどう思うのか、医療者はどこまで理解しているのだろうか?
アドバンスケアプラニング、訳して「人生会議」はまさにそのあたりをついているのだと思う。しかし、その必要性を感じても、元気な時に自分の死について、家族など周りと“実務的な取り決め”をすることも憚られる。そこで、わが国には「会議」よりも、昔の人は「辞世の句」を詠む習慣があることに気が付いた。90歳を過ぎた私の老年病学の恩師、小澤利男高知大学名誉教授の述懐から得たヒントである。
願はくは、花の下にて、春死なん、その如月の望月の頃(西行法師)
浜までは、海女も蓑着る、時雨かな(滝瓢水)
島田和幸(地方独立行政法人新小山市民病院理事長・病院長)[高齢者医療][アドバンスケアプラニング][地域包括ケア]