高齢者の看取りに関する議論が高まってきた。看取りとは、周囲が患者の病状を見て、もう看取りをしたほうがいいのではないかと判断し、患者本人が自ら死にたいと望めば、それをもって免罪符として死亡させるようにもっていくということらしい。
確かに身体のあちこちが悪くなり、老醜をさらし、かつ寝たきり状態で生命を維持し続けても本人は苦しいし、政府としても経費はかかるし、病院や介護施設の数にも限りがある。
この議論はだいぶ前から起こっては消え、起こっては消えている。がん末期や神経難病なら納得する人もいるだろう。また、何かの原因で食べられず、衰弱して感染症を合併して、どこからみても治りそうもないし、無駄な医療費を使うに値しないと感じるのも無理はない。
しかし、医療側からの反対意見が多い。安易に認めてしまうと、社会的な事由にも適応されてしまう可能性がある、という慎重論もある。そこで本人の希望や意思を確認して、本人が望むなら認めてはどうかというところまできている。もっともな話である。
しかし人間は生物である。哺乳類である。犬や猫のみならず、人間に近いサルやゴリラでも自ら死にたいという動物はいないし、生物の自殺は見たこともない。自ら死にたいと思う動物は人間だけである。要するに生きていることが生物の摂理であるならば、自ら死を望むような状態は病気だと言える。そう思う現在の自分が、置かれた環境が変化すると、死にたいとは思わなくなる場合もある。がん末期などを除けば、本人が死を望んだとしても、それだけを理由に安易に看取りを進めていくべきではない。
病院とはどんな重症の病状でも、懸命に治療して治そうとするプロが集まる場所である。そのプロの意地を捨てて、安易に看取りに加担するようにはなりたくないと思う医師も多いだろう。まずはきちんと高齢の重症患者を救うことのできる治療力を培うことだ。
人間にはそれぞれに寿命がある。その寿命をまっとうするには、その人に関わった医療チームの能力が問われる。総合診療力がなければ決して高齢者の複数の疾患が複雑に絡み合った厳しい病状を打開することはできない。1人の人間の寿命をきちんと完遂できるようにしなければならない。治せると思っても治らない病態もあるだろう。いくら高齢であっても、治る可能性に挑戦する医師でありたいと思いませんか?
武久洋三(平成医療福祉グループ会長)[本人の意思][寿命]