本稿の前半(No.5186)では、日本にはACPが必要であると述べた。後半は、私が感じている「ACPとして行われている行為(本当の意味でのACPではない)」の問題点について述べたい。
先日、ある高齢者施設に私の患者さんが入所希望をしたとき、施設からこう言われた。
「入所前に、DNAR(心停止したときの蘇生処置をしない)のACPを取って下さい。それを記載した書類がなければ入所できません」。
この発言にはいくつもの本質的な間違いがある。まず、ACPは取れるものではない。ACPは、患者さんが人生の最終段階をどのように迎えたいか、医療や福祉の専門家が知識を持ち寄って患者さんの思考を支援する(共同意思決定)プロセスである。プロセスをどうやって取るのか? この「取る」という言葉は「“施設で急変して医療対応が遅れたとしても異議を唱えません”という言質を取る」ことを意味しているのだろう。これは本質的にACPではない。
また、書類を出すことを求めている。これは自分の将来の医療に関する命令書を意味し、Living Will(LW)という。LWを作成することは1970年代に米国を中心に広まった事前指示(Advance Directive:AD)の考え方の中心的行為である。自分の将来の医療は自分で決め(患者の自己決定)、医療者に対する命令書として書類(LW)を策定する。LWは1976年米国カリフォルニア州で法制化され、LWに法的強制力が付加された。
しかし、2000年代になってADの問題点が指摘されるようになった。医療の専門知識のない患者が自己決定できるのか? LWを策定した後に患者の意思は変わらないのか? 意思が変わっても患者が意思表明できない状態になっていたら、望まない最期を迎えることにはならないか? そういう課題からADに変わって生まれてきたのがACPである。したがって、「DNAR指示を表明する書類を出せ」という行為をACPと言うべきではない。
私の周りで本当の意味でのACPが施行されていることは稀だと思う。患者さんのためではなく、医療者の都合に合わせて、ACPをねじ曲げて利用しているように思われてならない。こんなことならACPなんてやらないほうがましではないのか? と思うこともある。
私は思う。ACPをどうしてもやりたいのなら、きちんとACPをやろう。ACPが日本の社会に合わないのなら、偽物のACPはやめて私たち独自の方法を見つけるしかないのではないか。
小豆畑丈夫(青燈会小豆畑病院理事長・病院長)[医療と制度⑥]