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生命を感じる時 [なかのとおるのええ加減でいきまっせ!(71)]

No.4775 (2015年10月31日発行) P.76

仲野 徹 (大阪大学病理学教授)

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-02-09

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インタビューを受けた。その中で、「研究をしておられて、どんな時に生命を感じられますか?」と尋ねられた。実はこれが一番困る質問なのである。どうしてかというと、ほとんど感じることがないから…。

そんなアホなと思われるかもしれないが、ほんとうにそうなのだから始末が悪い。自分自身で細胞培養やマウスを扱っていた時には、それなりに感じてはいた。ただし、もう20年も前の話だ。

日頃、何をしているかというと、研究室の若者たちが持ってきたデータを見ながらディスカッションをして、「これはもうあかんからやめときましょ」とか「いけそうやからバンバンいけぇ」とか言うだけ。

そのデータというのは、組織の染色写真であったり、電気泳動の写真であったり、網羅的データを解析したグラフであったりする。早い話が、生命を直に扱ってはいない。あかんとは思う。が、しかたがない。

生命科学者を名乗り、生命の成り立ち、あるいは、その分子メカニズムを研究してはいる。しかし、自分で生命や生物をダイレクトに扱っているわけではない。おそらく、世間のイメージとはだいぶ違うだろう。

数年前から、自宅で、手水鉢と、自分で掘った直径1メートルくらいの小さな池(水たまりかも)でメダカを飼っている。外飼いなのでほったらかしである。それでも、卵が産まれて子メダカが育ってくる。

そんな時、素朴に生命を感じる。生まれて2〜3日もすれば、餌とそうでないものを区別できるようになる。順調にいけばどんどん大きくなっていく。あたりまえなのだが、「わぁ、生命ってすごいんや」と素朴に感動する。

残念ながら、電気泳動の写真やデジタル化されたデータを見て生命に感動する、というような高度な特殊能力を身につけてはいない。というよりも、そんなことができる人がおったりしたら、どこかがおかしいのとちゃうかと思えてしまう。

生命現象や病気の成り立ちが分子レベルで理解できるようになったのは素晴らしいことだ。しかし、研究の高度化が、生命というものに対する本能的な感覚を減じてしまっているような気がする。そして、こういったことが、研究における純粋な楽しみを奪い、業績至上主義に拍車をかけてしまってるんと違うかなぁ。反省…。

なかののつぶやき
「子供たちの理科離れを防ぐには、実体験を通じて『うわぁ、すごい』という感動を与えるのが一番なんでしょうけど、ゲーム機やスマホにはたして勝てるかというと、やや疑問かも」



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