筆者は例年、元旦の海から昇る朝日を眺めるために大槌湾を訪れる。今年2024年は、さしたる理由もなく夕刻に湾に浮かぶ蓬萊島を訪れた。
東日本大震災(2011年)による巨大な津波が大槌湾に押し寄せたとき、蓬萊島に続く防波堤は無惨にも損壊した。今では再建され、歩いて島まで行くことができる。
午後4時を過ぎて周囲の山々に日暮れが迫る頃、めずらしく高い波しぶきが防波堤を洗うのを見ながら、東京大学の大気海洋研究所があったあたりに向かって陸地に戻ろうとしていたとき、不意に携帯電話のアラートが鳴った。そして、能登半島地震の発生を告げるその画面に愕然とした。震度5強、まもなく震度7が告げられた。
大災害と感染症の大流行を実体験しながら、この十数年が過ぎた。なんの巡り合わせか被災当事者になることを免れてきたが、被災地となった三陸と能登は筆者の生い立ちを形成するほぼすべてと言ってもよい地域である。
筆者は大学を退職後、災害に絡む仕事は引退して語り部となるつもりだった。後を託した長崎大の泉川公一教授をはじめ、日本環境感染学会(JSIPC)の災害時感染制御検討委員会(disaster infection control team:DICT)のコアメンバーがいち早く被災現地へと動くのを横目に、筆者は午後の診療をこなしながらも、旅券を手配し、宿泊の確保をしていた。土曜の診療を終え、眠れぬ夜を過ごした翌朝、私は金沢への新幹線の中にいた。そして、東日本大震災での体験が胸をよぎる中、既に現役を退いた身には感情的な行動は似合わないのだと自分に言い聞かせた。
ともあれ、石川県庁までの時間は過去を振り返る時間となった。DICTは東日本大震災の岩手県における避難所での感染リスク評価活動(infection control assistance team: ICAT活動)に端を発し、当時のJSIPC理事会の発案で2012年に「被災地における感染対策検討委員会」がアドホック委員会として設置された。発足直後から、東日本大震災での経験をまとめた「大規模自然災害の被災地における感染制御マネージメントの手引き」の編纂に着手し、2013年には電子的に発刊された。その後に相次いだ茨城県常総市の大規模水害(2015年)や熊本地震(2016年)、岩手県岩泉町の水害(2016年)などの自然災害発生を受け、アドホック委員会は2016年には「災害時感染制御検討委員会(disaster infection control committee)」として常設委員会となった。
常設となって以降、委員会は災害時の被災地ICT活動の技術的、物的支援の枠組み検討、厚生労働省の防災業務計画に学会名を含めて記載されているICT派遣要請のニーズに対応するため、全国的なDICT編成と運営に向けて活動してきた。能登半島地震はその矢先の大災害である。
大災害の被災地では、多くの住民が職業や立場の別なく生活基盤を失い、いわば避難所での強制的な集団が形成される。オリンピックのような集団形成(マスギャザリング)においては、感染症の流行が生じるリスクが高まることが知られているが、災害時には特段の備えなく生じた集団形成がさらなる感染症リスクの高まりを生むことは想像に難くない。それにもかかわらず災害対策基本法には、避難や物資の支援についての記載はあるものの、避難後の感染制御策については地方自治体や保健所等の役割とされており、発災早期からの介入については具体論が示されていない。
言うまでもなく、地方自治体の行政組織は災害により深刻な被害を受けることが常である。この問題は訓練もそこそこに大災害の現地に赴いたDICTを襲うこととなった。(続く)
〔編集部注〕櫻井滋先生からは前回掲載分の「パンデミックの海で⑬」(No.5204)に続く原稿を既に頂いておりますが、能登半島地震の発災に伴い、その感染制御支援活動に関する原稿を急遽依頼し、ご寄稿頂きました。予定を変更して数回にわたり「大規模災害と感染制御」として掲載いたします。
櫻井 滋(東八幡平病院危機管理担当顧問)[能登半島地震][DICT]