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定年後の医者仕事─やりたかったこと、やってきたこと[エッセイ]

No.5256 (2025年01月18日発行) P.66

山之内 博 (元 東京都老人医療センター副院長)

登録日: 2025-01-19

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独法化された旧東京都老人医療センターの理事長に直談判

やりたかったことと、実際にやってきたことにわけて述べたい。まずはやりたかったが、できなかったことから述べる。

大森赤十字病院の院長職は、2011年3月末で70歳定年を迎えることになる。まだ働く能力はあると思っていたし、働きたかった。具体的にやりたいことがあった。大森赤十字病院に移る前に在籍していた病院、東京都老人医療センター(このときには独立行政法人化されて、名前も東京都健康長寿医療センターになっていた)に理事として戻りたかった。

定年になる1年ほど前、東京都健康長寿医療センターの理事長に、直接面談を求めて復帰したいとお願いした。理事長は外部からきた人で、この病院の歴史をよく知らない。病院の今までの歩みと実績、そして独法化に至る経過をあまり知らないはずだ。この病院に33年間勤務して、当時から現在のことまで、内部事情も含めて一番よく知っているのは僕だと思うから、独立行政法人になる前の都立の病院時代のことを説明した。

僕が辞める数年前、金銭的な面での病院経営が重視されはじめてから、ことに民営化問題が起こってからは、低下傾向にあった剖検率がさらに低下し(病理解剖による反省と研究がこの病院の大きな柱であり、使命であり、その継続は世界に誇ることのできる実績だった。なお、病理解剖は、その病院のレベルを表す指標として重視されており、当時は一定以上の剖検数と剖検率は、臨床研修指定病院や内科教育指定病院の資格のための重要な要件の1つだった)、学会発表や原著論文も減少し、以前に比べて全体としてアクティビティーが低下してきた、と僕は感じていた。

病院の民営化に反対する

民営化されれば、当然金銭的な経営が重視される。人員は減らされるだろう。不採算部門の閉鎖・縮小など、効率化が求められるだろう。結果として、病院のレベルや質は低下する恐れがある。また、なぜ、全国的に見てもレベルが高く、老年疾患に対する日本のセンター的な病院である(と広く認められている)当病院を、民営化させなければならないのか。東京都は老年病専門として世界的に評価の高いこの病院Tokyo Metropolitan Geriatric Hospital(1978年には国際老年学会が、病院長である村上会長のもとに、事実上当病院の主催により東京で開催された)を、都立の施設として維持し続けるべきではないか。そう思っていた。

当時副院長だった僕は、実質的な権限はないが、都庁が進めたい民営化に反対だった。実績もありレベルの高いこの病院を、民間に売り払われるのは困ると反対してきた。「積み重ねた内容の維持と存続を、強く願って気づけば矢面」に立っていた。だから、都庁の意向に反対する僕が、次の病院長になれる可能性はほとんどなかった。再び活気あふれる病院に戻したいという気持ちは強かったが、実権のあるポストに就くのはむずかしいとわかっていた。

2005年、大森赤十字病院に院長として赴任した。僕が去った数年後、東京都老人医療センターは東京都が直轄する病院ではなくなり、地方独立行政法人として運営されることになった。運営形態は、民間に売り払われるという完全な民営化ではなく、独立行政法人という半官半民のような穏やかな形で収まった。そんな形で決着したのは、僕の民営化反対が功を奏したのだろう(もちろん、それだけではないだろうが)と思っていた。独立行政法人ならば、ある程度東京都からの支援は期待できる。

古巣に戻りたい願いはかなわず

日赤の病院は公的病院として位置づけられているが、金銭的な運営については独立採算が求められている。独法化された病院の運営に対して、僕のこの経験は役に立つだろう。経営を重視しながらも、内容の質的な充実を図ることはできるのではなかろうか。理事の1人として内部を改革し、レベルの向上をめざして、医師のさらなる活性化を図りたかった。病院全体のレベルアップを図りたかった。これは、過去の病院の姿を知っている僕に課せられた使命ではないかとさえ思っていた。実際、独法化後,病理解剖の剖検率はさらに低下し、学会発表や原著論文も少ないと感じていた。

しかし、理事長は「あなたは偉すぎてふさわしいポストがありません」との言葉で断った。病院側は、僕を必要な人物だとは認めてくれなかった。独法化前の病院における僕の行動・実績や大森赤十字病院での経験から、この病院の運営に携わる資格は十分にあると自負していたのだが拒否された。残念だがあきらめるしかなかった。

他の専門病院への就職を探したが

さて、どうしようか。できれば専門分野の能力を生かせる所で働きたい。Y病院はどうだろうか。次に頭に浮かんだのは、この病院である。ここは老年病専門で歴史も古く、調べた範囲では、老年者の神経系疾患を広く扱っているようだ。僕の恩師だったK先生の出身病院でもある。僕は、脳卒中やパーキンソン病、認知症など、老人の神経系疾患が専門だから、Y病院ならばある程度役に立てるのではなかろうか。

この病院の事実上のトップの人に、僕の思いを手紙に書いて就職できないかとお願いした。しかし、「現在、神経内科の医師は充足しており、病院長とも相談した結果、お断りします」と退けられた。僕は定員外でも欲しい人材だ、とは評価してもらえなかった。

もう1つの病院へも申し込んだが、ここも断られた。定年になってからだが、郷里に地域の基幹病院として、本格的な急性期型病院が、県主導の財団法人として設立された。この新設病院で働きたくて、理事長に僕の思いを手紙に書いてお願いした。

若いころ、郷里に帰ってきてほしいとの要望があったのだが、それには応じなかった。その後ろめたさもあって、70歳をすぎていたが、最後の仕事として郷里の医療を手伝いたくてお願いした。あの地方では、僕の専門分野の医師は少ないはずだし、今までの学会発表や論文などから、先方は僕の業績を十分に知っているはずだとうぬぼれていたから、期待したのだが駄目だった。医師は、すべて某大学から派遣されるとのことだった。あの人は系列外ではあるが必要な人材だ、と病院側は僕を評価してはくれなかった。

いずれの病院も、僕を受け入れてはくれなかった。僕が希望した病院は、僕を必要な人材だとは認めてくれなかった。過去の行動や実績などは、何の影響力も持たないことを知った。現在の能力がどう評価されているか、組織にとって必要な人材とみなされるか否かによって決まるのが現実だ。自分を買いかぶってはいけない。

神経内科、老年病の専門医の経験を生かして

次に、実際にやってきたことについて述べたい。希望した職場で働くことはできなかった。でも、医者仕事を続けたい。最終的には大森赤十字病院で、外来診療を続けることにした。病院長のときからやっていた、一般内科と神経内科の外来診療を続けることになった。

大森赤十字病院は町の第一線の総合病院だから、若い人から老人まで、様々な症状を訴える人で対象の幅が広い。前任の東京都老人医療センターは、老人を対象にした高度の専門病院的な性格が強かったから、診断のむずかしい例、深刻な病気、重症なケースが多く、初診患者は紹介されてきて、入院を前提とする場合が多かった。大森赤十字病院の神経内科外来では、診断に苦慮するような特殊な神経疾患は少なく、パーキンソン病の初期や軽度の認知症など、比較的軽い症状のケースが多かった。

大森赤十字病院のほかにもう1つ、別の病院で神経内科の外来診療を手伝った。ここはかつての部下が神経内科の部長をしており、医師の数が少なく、多忙とのことで手伝うことにした。この地域は人口の割に大きな病院が少なく、ことに神経内科領域を担当する診療科が少ない。そのせいか、若い人から老人まで、本格的な神経内科系疾患の患者が多かった。

2011年から始めたこの病院での外来診療は、非常勤医師削減という病院の方針により、2017年夏で終了した。病院長時代から継続していた大森赤十字病院での外来診療も、2020年春、コロナ禍を契機に辞めた。

現在、療養型病院から某特別養護老人ホームへ派遣されて、非常勤の嘱託医として働いている。特養入所者のほとんどは80歳以上の高齢者で、様々な疾患を持っており、また、認知症も多い。内科系の病気としては糖尿病、高血圧、心疾患、脳卒中後遺症などが比較的多くみられるし、腰痛など体の痛みを訴える人も少なくない。僕は東京都老人医療センターに長く勤務していたから、老人の様々な病気に数多く対応してきた。この経験が今、特養での診療に役立っている。

おわりに

以上、定年後の仕事について述べた。働く場としては、希望通りにはいかなかった。定年後の仕事はおまけのようなものなのだから、自分のやりたいことにあまりこだわってはいけない。必要とされた職場で自分の能力を生かしながら働くこと、これが医者の仕事だ。医者として少しでも役に立てるならば、満足すべきだろう。

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