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黒田家の経済的基盤を作り出した目薬とは [エッセイ]

No.4751 (2015年05月16日発行) P.70

佐藤 裕 (国東市民病院)

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-02-20

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  • 秀吉に怖れられた軍師黒田官兵衛の生涯を描いた司馬遼太郎の『播磨灘物語』では、黒田氏は家伝の「目薬(玲珠膏)」の製造・販売によって得た財をもとに、播磨の地で伸し上がっていったとされている。

    まず黒田氏の出自であるが、黒田氏は鎌倉幕府の有力御家人であった佐々木氏の支流のひとつである京極氏の末流であり、さらにその支流が近江の国伊香郡黒田村(現・滋賀県伊香郡木之本町黒田)に移り住み「黒田」と名乗ったことから始まっている。その後、1511(永正8)年に官兵衛の曾祖父高政がときの将軍足利義稙の不興をかったことから、近江を退去して備前の国邑久郡福岡に移り住んだ。その当時、備前の国は佐々木氏の一支流である加地氏が支配しており、同族の好みということもあって当地に居を構えたものと思われる。

    新しい本拠地となった福岡は備前一の商都とも言われており、ここで高政は件の「家伝の目薬」を製造・販売して財を成し、黒田家隆盛の財政基盤を作った。その後、官兵衛の父重隆の代になって備前から播磨へ居を移すと、地元の広峯神社の御師(特定の寺社に所属して、その寺社への参拝やその際の宿泊などを取り計らう者のことで、彼らは全国を渡り歩いてその寺社への参拝を勧誘したり、お守り札などを売り歩き、今日の旅行代理店のような役目を果たしていた)と組んで目薬の販売網を拡大していくことにより財を成し、その財力を背景に御着城主小寺氏の要職を担う実力者に成長していった。

    では、戦国時代後期に官兵衛を世に送り出す原資(蓄財)を生み出した黒田家秘伝の「目薬」とはどういうものだったのか。



    この黒田家伝来の「目薬」は、カエデ科の「目薬の木ないしメグスリノキ(Acer maximowiczianumないしAcer nikoense Maxim)」の樹皮や葉を煎じて得たエキスをさらに煮詰めて飴状にしたもので、それをそのまま目に塗るか、水に溶いて液状にして目を洗うようにして使ったようである。どういう経緯で「目に効く」という薬効が知られるようになったかは詳かではないが、古来より、煎じた汁で目を洗うと眼病予防や治療に良いとされるようになったことから、「目薬の木」ないし「メグスリノキ」と呼ばれるようになった。その後、ただ眼病だけではなく肝臓にも良いとされるようになり、特に山間地域などでは民間療法的に、乾燥させたメグスリノキの樹皮や葉を煎じたもので目を洗ったり(目に良いことから「千里眼の木」とも呼ばれた)、肝機能強化のために煎じたものを飲用するというようなことが行われていたという。

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