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庄内の女たち(2)【地霊の生みし人々(23)】[エッセイ]

No.4777 (2015年11月14日発行) P.70

黒羽根洋司

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-02-09

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  • 佐々木邦と信子

    佐々木邦にとって鶴岡疎開は自身の晩年に様々影響を与えたが、特記すべきは再び良き伴侶を得たことである。1949(昭和24)年4月、邦は進藤信子と再婚する。邦は65歳、信子は35歳。長男の妻容子といくつも違わない、年の差婚であった。当時の新聞は「“老いらくの恋”ユーモア編」と報じ、歌人・川田 順の老いらくの恋に比肩するロマンスとして話題にした。

    邦が信子に出会ったのは、亡き妻小雪の親戚筋に当たる山形大学教授の家であった。山形県立鶴岡高等女学校(現・山形県立鶴岡北高等学校)時代、同人誌に投稿したこともある信子は、師について句作を続けていた。教授も俳句をたしなみ、妻を亡くしたやもめ暮らしであったため、信子が時折家事の手伝いにきていた。信子も未亡人で、どうやら教授は彼女に好意以上のものを抱きつつあるようだった。

    上背のある、ほっそりとした姿に楚々とした和服が似合う信子は、邦に強烈な第一印象を与えた。和歌や俳句をたしなみ、生田流の琴にも堪能と聞き、いっそう魅せられていった。

    邦と教授が男同士で火鉢を挾んで雑談を楽しんでいた、ある日のことである。別れたのちに教授が見つけたのは、火鉢の灰に邦がいくつも書き残した「信子」の文字であった。邦の想いを知った教授は、きっぱりと身を引く決意をした。

    結婚式は鶴岡市内の八幡宮で執り行われた。媒酌の労をとったのは、信子の日本画の師、小貫博堂夫妻であった。信子の親戚のほか、邦が疎開中に親交を結んだ地元の文人たちが祝福した。

    東京での披露宴は豊分の自宅で行われた。新婚当時、挨拶状に添えた句がある。

    老いらくの恋といわれて夏暑し

    邦は1961(昭和36)年に児童文化功労者として表彰され、翌年には紫綬褒章を受章する。

    1964(昭和39)年9月22日、邦は出前の会席弁当を食べ、機嫌よく義太夫の触りを唸って、夜10時に床に就いた。間もなく胸苦しさを訴え、信子が医師の往診を求めたが間に合わず、あっという間に息をひきとった。心筋梗塞であった。長患いもせず、81年間をかけた佐々木邦の作品は、見事に完結した。

    最晩年、邦は友人に「ヨメを貰うなら、鶴岡の娘さんに限るよ」と語っていたという。そんな邦は疎開中に地元新聞社が主催する座談会の席で、やはり鶴岡の娘を貰った1人の文士に会っている。横光利一である。

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