評論家の加藤周一は、「1930年代でもっともよく読まれた小説家は横光だ」と言っている。アメリカ軍の通訳をしていたドナルド・キーンは、日本人捕虜を尋問すると、知識人将校の多くが日本文学の代表として「横光」の名を挙げたと証言している。いかに横光利一が昭和初期の文学界に重きをなしていたかがわかる。そして、1935(昭和10)年前後には「文学の神様」と呼ばれるまでになる。志賀直哉が「小説の神様」であるから、横光のもてはやされぶりがうかがえよう。ちなみに、川端康成は「借金の神様」と呼ばれていた。それぞれの神様も時代の波に翻弄され、1人の生活人として苦悩していく。
1945(昭和20)年5月24日未明から翌25日におよぶ東京大空襲は、東京の山手一帯を焼き尽くした。火は横光の「雨過山房」が建つ北沢の手前で奇跡のように止まり、幸い家は残り、命も助かった。しかし、ここまで焼かれては、今さら防空消火もない。気が合った日向家の義父豊作も亡くなり、そのうえ親族の疎開者が同居していると聞いていてためらっていた横光も、ついに重い腰を上げる。こうして、6月初めから鶴岡での疎開生活が始まった。
19歳のときから東京で過ごしてきた横光には、戦時下での田舎生活はよほどこたえたようだ。「食生活はこちらより東京のほうがよほどまし、タバコはイタドリの葉を巻いて吸っている。茎の白いのがいくらかおいしいというが、やはりマズい」と盛んに愚痴をこぼす。
3家族12人が身を寄せる日向家には1人になれる場所がないため、執筆どころではない。家族だけで住める家を探してみたが、なかなか難しい。おまけに、以前から抱えていた胃痛が悪化し、栄養が悪いためか脚の弱り方が目立ってくる。
6月29日、酒田港が爆撃される。死者30人、小規模ながら山形県の初空襲である。6月15日の大阪大空襲を最後に大都市への組織的空襲は終わり、こののち地方都市への爆撃が主となる。
7月初めの手紙で、また愚痴を言う。「当地では水ばかり飲んで、お茶も飲めない。ちゃんとしたタバコがないのがこたえる」
ようやく、廃墟と化した東京へ一旦帰る。車中の難儀を覚悟してのことだから、よほど帰りたかったのだろう。得ることもなく、8月初め、鶴岡へ再び戻る。
8月12日、千代が偶然、鶴岡市郊外の西目山口集落にある佐藤宅の一室を借りる話をつける。そして、その日がやってくる。
8月15日、貸間に移って3日目、終戦を知る。夕方、わざわざ鶴岡から訪ねてきた義弟が、真っ赤な顔で「休戦、休戦」と言った。高下駄の足元がおぼつかないため、庭石につまずきながら、「ポツダム宣言全部承認」と続けた。
「ほんとかな」と言う横光に、「ほんと、今ラヂオがそう云った」と義兄は答えた。
この日から12月15日に鶴岡を引き揚げるまでの4カ月間の日記体の手記は、『夜の靴』として1篇の作品として仕上がった。
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