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太宰治の『惜別』─続・文学にみる医師像 [エッセイ]

No.4779 (2015年11月28日発行) P.72

高橋正雄 (筑波大学人間系教授)

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-02-02

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  • 1945(昭和20)年に太宰 治が発表した『惜別』(朝日新聞社)は、仙台医学専門学校(以下、仙台医専。現・東北大学医学部)時代に魯迅と同級生だった老医師が学生時代の魯迅との交友を振り返るという作品であるため、日露戦争当時の仙台の様子や東北の医学生を知る上でも、興味深い作品である。



    『惜別』は「東北地方の某村に開業している一老医師の手記」という形式になっているが、この老医師が東北の城下町の中学を卒業して仙台医専に入ったのは、1904(明治37)年の初秋だった。この年の2月にはロシアに対する宣戦の詔勅が下り、主人公が仙台に来た頃は遼陽が陥落して旅順への総攻撃が始まっていた。特に仙台の第二師団第四聯隊は、初陣の鴨緑江渡河戦に快勝し、続く遼陽戦でも大功を立てたため、仙台の新聞には「沈勇なる東北兵」という見出しの記事が次々に連載され、芝居小屋でも遼陽陥落万々歳というにわか仕立ての狂言を上演するなど、「全市すこぶる活気横溢」という雰囲気だったという。

    仙台医専の学生も、「何か世界の夜明けを期待するような胸のふくれる思い」で、伊達家三代の霊廟がある瑞鳳殿に戦勝祈願をしていたし、上級生の大半の志望は「軍医になっていますぐ出陣する事」だった。また、下宿では学生たちが新兵器についての議論をして、旧藩時代の鷹匠に鷹の訓練をさせ、鷹の背中に爆裂弾をしばりつけて敵の火薬庫の屋根に舞い降りるとか、唐辛子を詰めた砲丸を敵陣の上で破裂させて目つぶしを食らわせるといった珍妙な発明談義に熱中していた。

    その頃の仙台は既に10万人近い人口があって、電燈も10年前の日清戦争の頃からついており、市内の松島座や森徳座では明るい電燈のもとで歌舞伎が常設的に興行されていた。中でも、東一番丁の夜の賑わいは格別で、興行物は午後11時までやっていたし、飲み屋や蕎麦屋、牛鍋屋やコーヒー店など、東京にあって仙台にないものは市街鉄道ぐらいのものだった。当時の仙台には、大きな勧工場や洋菓子屋、洋食屋や玉突屋などもあって、「夜を知らぬ花の街」の趣を呈していたのである。さらに、キリスト教の教会が市内の随所にあるのも仙台の特徴で、キリスト教系の学校も多く、岩野泡鳴や島崎藤村などの文人も、仙台の東北学院に在籍、あるいは教鞭を取っていた。

    すなわち、仙台という街は、地理的には日本の中心から離れているように見えながらも、文明開化という点では早くから中央と敏感に触れ合っていたわけで、田舎出の主人公などは、仙台市街の繁華にたまげ、街の至る所にある学校や病院、教会などの設備に驚愕し、弁護士という看板を掲げた家の多さにも眼を見張るという状態だった。

    そうした最中に、主人公は、清国からの留学生の周さん、後の魯迅と出会ったのである。

    明治37年の仙台医専の新入生は全国から150人以上集まったが、それぞれ東京組とか大阪組というように、出身地を同じくする新入生たちが群れを作って、学校でも街中でも楽しそうに騒ぎまわっていた。しかし、主人公の中学から仙台医専に入ったのは彼1人だけで、しかも主人公は口が重かったために、ほかの新入生と交わって冗談を言い合う勇気もなく、1人孤独をかこっていた。

    一方、魯迅もまた、仙台の地で留学生として孤独な日々を送っていたのだが、偶然松島で知り合った2人は、松島の旅館に泊まって様々なことを語り合った。魯迅は、自分が医師を志した理由が父親の死にあるとして、次のような過去を語った。

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