1944(昭和19)年に発表された『礎』(新潮社刊)は、島木健作(1903~1945)の半自伝的な作品であるが、そこには大正期における名医の姿が描かれている。
わが国でもスペイン風邪流行の余波が未だ収まらずにいた頃の話である。「この目に見えない悪魔は社会を暗い恐怖の底におとし込んでいた」が、主人公たち若者は一向に無関心だった。彼らは、手紙の結びには、「からだに気をつけ給え」とお決まりの文句を並べていたものの、自分についても他人についても、体のことなど切実に考えたことがなかったのである。
ところが、ある日主人公が友人の岩木の下宿を訪ねると、岩木は寝込んでいた。「部屋へ入ると熱臭いこもったにおいがぷんと鼻をついた」。医者はただの風邪だと言ったらしいが、この5日ほど、39℃前後の熱が出てなかなか下がらないのだという。
その後岩木の熱は、一旦は下がったものの、2週間ほどして主人公が訪ねてみると、もうとっくに起きて机に向かっているはずの岩木が、また床についている。岩木は蒼白な緊張した顔をあげて、「とうとうやられたよ、おれは」、「やはり、ただの風邪じゃなかったんだな。胸なんだ。肺をやられていたんだ」と言いながら、ここ数日間の様子を次のように語った。「からだがだるいし、飯もよく食えないし、明け方にはきっと寝汗をかく。疲れが出たんだろうくらいに思っていたが、午後にはかなりな熱があるんだ」。
しかも、岩木は4日前に血を吐いたというのに、医者に診せていなかった。「呼んでもこの頃はなかなか来ないんでね。しかしこの病気の場合、医者は本人には言わないのが普通だというじゃないか」、「はじめっからこの病気だったにちがいないし、医者にわかっていなかった筈もないよ。しかしなんにも言わない。この頃余り来たがらないのもそのせいのように邪推されないこともない。ともかく僕はあまりあの医者は信用しないんだ」。
そのように医者への不信を語る岩木の額には、にじみ出た汗が光っていたが、それは、「病苦よりは精神の葛藤がしぼりだすあぶらだった」。「彼の若い生命は未だかつて知らなかった深淵の前におののきながら、必死な戦闘への備えを立てようとしている」のである。
こうした岩木の状態を見た主人公は、知り合いの弁護士から、近藤という医者を紹介してもらう。近藤は駒込にある大きな病院に勤める医学士で、早速主人公が弁護士から紹介状を貰って出かけていくと、30代前半で未だ独身の近藤は、「青年のような飾らない率直さと、闊達な気象」の持ち主で、「俗事にとらわれず研究に打ち込んでいるひたむきな精神」が感じられるような医者だった。
岩木の年が19歳だと聞いた近藤は、「一番病気の出やすい年頃だね。その年頃だと病気の進みも早いが、早く適当な療養生活に入れば治りもまた早いんだ。決してそう悲観することはない」、「しかしともかく診て見た上でのことだ」と言って、主人公を勇気づけた。
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