香港の中国大陸側、九龍半島の海沿いに青山公路という幹線道路が深圳市方面に向かって走っている。19世紀末の日清戦争直前の時期に、香港に流行したペストと闘い、その病気に感染して死線を彷徨った日本人医師のメモリアルとして付けられた道路名である。
ペストは黒死病とも呼ばれ、1347年に突如として、黒海の向こうからヨーロッパ世界に襲いかかり、瞬く間に人口の1/4~1/3、2500万~4000万人もの命を数年のうちに奪った疫病である。その後、ヨーロッパの土着の病気となり、400年にわたり、時には数万人単位が死亡する流行を繰り返していた。その間、人類の持っている医学知識ではなす術がなかった。14世紀にローマ教皇に仕えた詩人で、恋人ラウラを黒死病で奪われたペトラルカは、医師や医学に対して次のような辛辣な言葉を残している。その状況は19世紀末まで変わらなかった。
「男が少なくとも勇敢に死ぬる戦争とは異なり、ペストにおいては薬も慰めもないのだ。あらゆる不幸の上に病の根拠、原因がわからないという事実が加わる。けれども、この無知も病自体も医者たちの言い逃れやでたらめほど憎むべきではない。医者たちは何でも主張するけれど何も知らない」
1894(明治27)年5月12日、イギリス統治下の香港の日本領事は陸奥宗光外務大臣宛に、状況報告と意見具申を打電した。
「当地支那(ママ:中国)人労働者中に流行の伝染病はあまり猛烈なると思はれず、さりながら、もし貴大臣において香港より支那労働者を搭載して本邦海口に来る船舶を検査することを適当なりと思せられ候ば、その上陸を禁ずるにしからず」
これが第一報であったが、翌日にはその伝染病が黒死病と判明し、22日は高い死亡率が打電された。
日清間は一触即発の強い緊張状態にあり、その上のペスト上陸の恐れに、日本国政府は俄然緊張感を高めた。5月28日には、内務大臣が伊藤博文総理大臣に「黒死病調査として中央衛生會委員派遣の件」を具申した。伝染病研究所所長の北里柴三郎と、東京帝國大学医学部内科教授の青山胤通を責任者とし、6人の調査団が2617円の予算で1カ月の調査期間で派遣されることになった。2016年において7000万円くらいの予算だろうか。
北里は熊本出身で年齢は41歳。東京医学校(現・東京大学医学部)卒業後、ドイツのベルリン大学に留学し、ロベルト・コッホに師事して、破傷風などの細菌学や感染症治療の研究を行い、2年前に帰国したばかりである。青山は岐阜の苗木(現・中津川市)出身で35歳直前。東京大学医学部卒業後、ベルリン大学で病理学の大家ウィルヒョウの下で学んでから帰国し、弱冠29歳で教授となった。2人とも文明開化後の明治日本における医学界のエースである。
6月4日、一行は横浜から出航した。6月7日、香港から長崎に向かう米国船ペリュー号の水夫が黒死病で死亡し、水葬にされた。おそらく一行の船とは東シナ海洋上ですれ違ったはずだ。ペスト襲来は現実のものとなりつつあった。6月12日、調査団は香港に到着した。
19世紀半ば頃より、ビルマとの境に近い中国南部の雲南省で数年おきにペストが発生するようになり、先にネズミが斃れ、その後、人が斃れるので鼠疫と呼ばれ、風土病化しつつあった。しかし、清朝政府は衛生行政に携わることなく、民間の慈善団体に防疫や医療を任せるだけで、流行の度に多くの犠牲者を出していた。この年も雲南から発した流行が広東省にも及び、10万人単位の犠牲者を出していた。香港では4月下旬に発生したと思われ、香港島の九龍半島に面した太平山地区の中国人の貧民街で患者が続出した。衛生状態は悪く、ほとんど入浴せずに着の身着のままで、狭い家屋にたくさんの人が雑居し、壁は剥がれたままで、床には長年の塵芥が掃除されることなく皮のようにこびりついていた、と青山は報告している。戸外の道端にはおびただしい鼠の屍骸が転がっていた。
残り3,515文字あります
会員登録頂くことで利用範囲が広がります。 » 会員登録する