人類は、ホモ・サピエンス(考える存在)であるが故にホモ・パティエンス(苦悩する存在)でもある。この両者を少しでもつなげて矛盾を昇華するために、人はホモ・ナランス(物語を語る人)として心の軌跡を他者と共有することを求めるのである。精神・心理学者ピエール・ジャネは、「語りが人類をつくりあげた」とも述べている。
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透析医療に従事して43年になる。基礎医学を志したこともあったが、学園紛争を機に、臨床医となるために麻酔学と消化器外科を学びつつ、当時黎明期にあった透析医療に携わることになった。そこで私を育ててくれたのは、この道の開拓者たちであり、雑居ビル同然の透析現場と数少ない書物、そして何よりも当時の試行錯誤の診療に耐え、不安を抱きつつも未熟な我々を温かく見守ってくれた患者たちであった。
透析医療従事の終括期を前に、ふと目にした報道番組に触発されて、一人ひとりの透析患者の話にじっくりと耳を傾けるべく「透析患者の語りの会」(以下、「語りの会」)を思い立った。以来9年間、スタッフの自発的協力を得て、自ら聞き手となり月1回のペースで「語りの会」を続けている。
語りの場において、聞き手は「これまでの人生で、あなたが経験されたことをお話しください」といった主旨に沿って、診察室以外のリラックスした雰囲気の中で「語りの会」への賛同を謝し、映像・音声収録の許可を得た後に、患者の体調を尋ねることから始めている。その際、聞き手が患者の語りに解釈や解決を示唆せずに耳を傾けていると、数分後には患者のこれまでの喪失体験といかに生きなおしてきたかの人生の物語が語られる。
当初「語りの会」は、より詳しい彼らの喪失体験と再生の物語という、三人称的情報収集を目論んでいた。しかし回を重ねるごとに、語り終えた患者が、自らの重荷を降ろしたような晴れやかな表情になり、「楽しかった」「よかった」「ほっとした」などの言葉をもらすことに気づいた。また、聞き手がひたすら肯定的傾聴に徹していると、いつの間にか語り手に釣り込まれて自らの人生を語っていることさえある。このように「語りの会」は、語り手と聞き手の間に融和な雰囲気を醸し出し、ひいては医療現場にとっても好ましい変化をもたらしたのである。
人は自らの人生を問うために、3度フランクルの著書を読むと言われている。私が初めて手にしたフランクルは霜山徳爾訳の『夜と霧』であったが、若かった私にはジェノサイドの言葉の意味と当時の状況把握に苦しんだことを記憶している。その後「語りの会」を取り組むようになり、池田香代子訳『新版 夜と霧』とその関連書を繙読した。そこには、人生はどのような状況でも意味があり、その意味への意志について明確に述べられていた。とりわけフランクルの言葉の中で心惹かれたのは、「何かが、誰かが、あなたを待っている。あなたがどんなに人生に絶望しても、人生があなたに絶望することは決してない」という名言であった。このように、「語りの会」の趣旨が変化してきていることを感じていた私には、辛い透析生活について患者が語ることの意味を問い直すきっかけとなった。そして「語りの会」が、医師と患者の二人称的対話へ、さらに患者が自らの人生を自分の言葉で物語ることで、それぞれの人生を改めて問い直す、一人称的な意味を持つ場となっていることに気がついたのである。
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