1892年に発表されたチェーホフの『浮気な女』(『チェーホフ全集09』池田健太郎 訳、中央公論社刊)は、優秀で篤実な医師の妻が、夫の本当の魅力や偉大さがわからないままに、若い芸術家と浮気をするという話である。
オリガの夫ドィモフは、「医者で9等官」の勤務医で、「病院を二カ所かけ持っていて、一方では定員外の医師を勤め、もう一方では病理解剖を受持っていた」。彼は、「毎日、朝の9時から正午まで、外来患者を診たり受持ちの一般病室を回診したりしてから、昼すぎに鉄道馬車でもう一つの病院へ駈けつけ、そこで死んだ患者を解剖する」というような多忙な日々を送っていたのである。
オリガがドィモフと知り合ったのは、彼女の父親が病気になったとき、ドィモフが昼夜を徹して幾日も付き添うという、自己犠牲的な対応をしたことがきっかけだった。2人が結婚したのはドィモフが31歳、オリガが22歳のときだったが、結婚後、オリガは毎日午前11時頃に床を離れると、ピアノを弾いたり、油絵で写生をしたりして過ごした。その後で彼女は、仕立屋に行って服を新調したり、知り合いの女優の家で芝居のニュースを仕入れたり、画家のアトリエを廻ったりもした。オリガは、「有名人をうやまって彼らを誇りに思い」、「たえず有名人に飢えていて、何としてもその飢えをいやすことができない」ような女だったのである。
そんなオリガは、夫のことを「あなたは聡明な、上品な方ですわ」と評価する一方で、「でも、一つだけとても大きな欠点がありますの」と付け加えながら、「あなたは芸術にぜんぜん興味がないのね。音楽も絵も認めては下さらないのね」と不満を述べた。
それに対してドィモフは、「僕はずっと自然科学と医学を勉強していて、芸術に興味をもつ暇がなかったものだから」と答えたが、オリガが「でも、それは恐ろしいことよ」と反論すると、ドィモフは「どうしてだね?君の知合いたちは自然科学や医学を知らない、しかし君は連中を非難しないじゃないか。人にはそれぞれ自分の分野があるんだよ」と言って、自分には芸術はわからないけれども、だからといってその価値を否定しているわけではないと、答えた。
オリガが、水曜日ごとに夜会を開くような生活をしていたのに対して、ドィモフは、病院で丹毒に感染して6日も床についたり、解剖中に指を切って屍毒の感染を心配しなければならないような危険な目に遭っていたのである。
こうした日々を送る中で、オリガは、芸術仲間の風俗画家と不倫の関係に陥るのだが、ドィモフは、それに気づいても寛大で、オリガを責めるようなことはしなかった。ただ、ドィモフは夜も書斎に籠って仕事をするようになり、午前3時頃床について、朝の8時頃起きるといった生活をしていた。
そしてある晩、いつものようにオリガが劇場に行く支度をしていると、フロックを着て白いネクタイを締めたドィモフが寝室に入ってきて、優しい微笑を浮かべながら、「いま学位論文がパスしてね」、「ひょっとすると僕は、一般病理学の講師に任命されるよ」と言った。
ドィモフはこのとき、もし妻が夫と喜びを分かち合いさえしたらすべてを許し、一切を忘れる気持ちでいたのだが、講師や一般病理学という言葉の意味すら理解できないオリガは、何も答えることができなかった。
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