診察室に入るなり、女性の患者さんが泣き出してしまいました。
「腰が痛い、足がしびれる。生きていてもつまらない。楽しみはなぁんもなか」
数年前から患っている脊椎すべり症が、コルセットをしてもリハビリをやっても治らず、どこを受診しても良くなる見込みがないと言われ、悲しくて仕方がないらしいのです。
「手術はいや。良くならん治療は受けたくない」
そうですね。
「遠方に住んでいる息子は世話をしてくれんし、内臓は丈夫だから病死もできんし、どうしたら死ねるのか、先生、教えて下さいよ」
なるほど、そういうわけですか。死ぬのは簡単ですよ。今から飲まず食わずにいれば、確実に死ぬことができます、などとは口が裂けても言えません。なにしろ私は眼科医で、72歳の患者さんの視力は裸眼でも1.2で、良好そのもの。全身疾患がないのであれば、災害にあうか自殺する以外に死ぬあてはないわけですし、自殺する気持ちもないでしょう。ただ悩みを聞いてほしかったのだ、誰かに愚痴を言いたかったのだと思います。
たかが愚痴、と侮ってはいけません。「ぼやき」は独り言ですが、愚痴るには相手がいるのです。家族や友人に言い続けようものなら、「またか、婆ちゃんはうるさかね」と敬遠されかねません。医者ならばフムフムと相槌を打ってくれるだろうと期待されているのです。
なかにはこんな変化球を投げてくる人もいます。
「目が一番大事。足がなくなっても耳が聞こえんでも困るけど、目が見えんごとなったら不自由かもんな」
歯科ではこうおっしゃっているかもしれません。
「歯が大事。食べられなくなったら、なんも楽しみはなかもんな」
目も歯も腰も耳が遠くなっても、一箇所でも体の不具合が生じれば、お先真っ暗の気分になったとしても仕方ありません。健康なのが当然だとばかりに自信がありすぎて、体に負担をかけている自覚がなかったのでしょう。気づいた時には「あっ」、ギクッとなってしまうのも無理からぬことです。
歩けなくなったら、公共交通機関のない田舎では途端に自由がなくなります。買い物にも行けません。元気な間はいいけれど年を取ったらどうしよう、動けなくなったら、認知症になったらどうしようと、誰もが不安に慄いているのです。良くなる見込みがないのなら、不安は一層募ります。他人ごとではありません。私だって母も祖母も骨粗鬆症だったし、認知症に関しては要注意人物だと友人の医者から脅かされているのですから。
84歳の父も、最近は認知症に怯えるようになりました。趣味もなく人付き合いも苦手で、白衣を脱いだら唯の人。
「耳が遠くなった、目も見えん」とぶつぶつ言いながらも現役を続けているのは、暇のつぶし方を知らないからで、仕事をやめたくてもやめられないのです。
「もういかん、来年は仕事ができないかもしれん」
「隠居してもいいけど、テレビの番は退屈だよ」
うーむ、父は悩みます。
料理に家庭菜園、編み物となんでもござれのしっかりものだった祖母が、隠居した直後に老いはじめ、テレビの前でこっくりと舟を漕ぐようになったことに恐れをなしているのです。
「退屈ほどつまらない病はないよ。誰とも会話しなくなったら、時間を持て余して惚けるしかないじゃない」
母だってそうでした。食堂の椅子から立ち上がった拍子に尻餅をつき、大腿骨頸部骨折後に認知症となったのも、もとはと言えば仕事をやめたのがいけなかったのです。頭も使わず体も動かさないから、退屈の病に侵されたのです。趣味や仕事に邁進している間は良いけれど、人間は動物だからじっとしていたら弱ります。ぼーっとしていてはダメ。
母が存命中は「男子厨房に入らず」を押し通していた父も、「男やもめにウジがわく」のは避けたいのか、洗濯機を回し、コメを研ぐ(さすがにおかずは作れないが)のを日課としています。
「年には勝てん」とぼやきながらも、老いと戦っているのです。
昼間は患者さんや従業員と雑談しているから良いとして、休日や夜はどうしましょう。家と診療所は同じ敷地内にあるから通勤時間はゼロ、室内はバリアフリー、オール電化、トイレや寝室いたるところに警備会社につながるボタンが設置されていて、玄関には防犯カメラがにらみを利かせている。一見万全のようですがそんなものは気休めにすぎません。以前、本欄(4618号)で犬が助けてくれた人の話を書きましたが、わが家の老犬はグウグウ寝ているばかりで、主人が倒れても知らぬ顔をしているでしょう。
それゆえ父は用心します。21時前には就寝、昼寝も欠かさず、1日の半分が布団の中ではないかと思えるほどで、生活習慣病とは無縁の暮らし。それもこれもストレスに弱いからこその用心深さ。
「起きている時間を足したら、60年にも満たないじゃないの。死んだらどれだけでも寝ていられるから、まだあの世に行くのは早すぎるよ」
「ははは、フク(愛犬の名)の便取るマン(世話係)をしなくちゃいけないからな。ほんとにボケたら、ぼやきもできん」
そうそうと叱咤激励しながら、子どものほうこそ「父よ、どうか認知症にはならないで」と祈っているのです。