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上林 暁の『舊病院』と『狂院幻想』─精神科病院後遺症[エッセイ]

No.4932 (2018年11月03日発行) P.66

高橋正雄 (筑波大学人間系)

登録日: 2018-11-04

最終更新日: 2018-10-30

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上林 暁は、1946(昭和21)年に統合失調症と思われる妻を入院先の精神科病院で亡くしているが、1953(昭和28)年に発表した『舊病院』や、1960(昭和35)年に発表した『狂院幻想』には、妻を精神科病院で亡くした作家ならではの感慨が描かれている。

『舊病院』

1953年に上林 暁が発表した『舊病院』(『上林暁全集10』、筑摩書房刊)には、戦時下に精神科病院に入院していた妻の主治医だった高里医師の思い出が綴られている。

主人公が、初めて高里医師に出会ったのは、1939(昭和14)年8月1日のことだった。その前日から東京・阿佐ヶ谷の病院に入院していた主人公の妻は、その病院の紹介で、高里医師が院長を務める武蔵野養生院に送られたのである。

そのとき主人公は、「初めて行く精神病院という所を考えると、なんだか地獄へでも行くように感じ」ていたが、そんな主人公の不安を払拭したのが院長の高里医師だった。「院長に初対面した瞬間、私の憂いは忽ち消えてしまった。院長は半袖シャツ1枚で、辺幅を飾らず、気取りも気むずかしさもなく、カラカラと大笑しながら、あけすけな話をするのだった」。

高里医師はこのとき、「僕は医者になっても、血を見るのがいやだから、精神病科をやったんです」、「僕は院長で小使ですから、病院のことは何でもやります」などと語ったが、その恬淡な態度に親しみを感じた主人公は、救われたような気持ちになった。

その後、戦時下の窮乏を経て、終戦直後には、公立の大きな脳病院では、栄養不良のために毎日50人ずつ患者が亡くなっているという噂だった。武蔵野養生院でも毎月何人かが亡くなり、残る患者は主人公の妻を含む7、8人になったため、経営不能と食糧の逼迫を理由に、武蔵野養生院は閉鎖されることになったのである。

主人公の妻も近くの精神科病院に移送され、そこで亡くなるのだが、妻が亡くなってから4年後の1949(昭和24)年3月、主人公は高里医師が亡くなったとの知らせを受ける。

主人公が久しぶりで武蔵野養生院を訪ねると、高里医師の妻が出てきて、夫が亡くなった経緯を話してくれた。それによると、高里医師はこの2月中旬に脳溢血で倒れ、それから1カ月あまり後に68歳で亡くなったが、療養中の高里医師は、気は確かだったものの、よく癇癪を起こして、家族を怒ったという。

好人物だった高里医師を知る主人公には信じられなかったが、妻は「あの病気にかかると、気が短くなるそうですからねえ。それに主人は、このところ税金のことで頭が一ぱいで、いつも、くしゃくしゃしていましたから。病気のもとも、税金からでした」と説明した。

温厚な高里医師も、脳卒中後は感情コントロールが効かない状態に陥っていたようだが、ここには戦後の混乱期に税金をめぐるストレスゆえに、脳卒中で亡くなった精神科医の姿が描かれている。戦争で自分の病院を失い、精神病理学に関する著作に着手しながらも、脳卒中のために未完で終わったという高里医師は、さぞかし心残りであったろうが、彼もまた、精神科病院で亡くなった自分の妻と同じ多摩火葬場で焼かれたことを聞いた主人公は、「病んだ妻も、7年間それを見守った高里先生も、死は隔てなく、一つにした」と思った。

精神病者たる主人公の妻が時代の犠牲になったように、その主治医の精神科医にも時代の犠牲者という側面があったのである。

『狂院幻想』

1960年に上林 暁が発表した『狂院幻想』(『上林暁全集第12巻』、筑摩書房刊)は、かつて妻を精神科病院に入院させた経験のある主人公の息子が、後に建築家となって精神科病院の設計をするという話である。

上林自身を思わせる作家の主人公は、ある日、今は別れて暮らしている息子が、権威ある建築雑誌に精神科病院の建築計画を発表したということを知ってショックを受ける。主人公は、「精神病院で狂死した患者を母に持った息子が、精神病院の設計を手掛けたということに、ちょっと異常な運命を感じた」のである。

実は、いまだに精神科病院は悪夢だったと感じている主人公は、過去の悪夢を呼び起こすような仕事は忌避して、「狂人及びそれに近い人物の出て来る小説は一切読まないことにしている」し、そういう人物が登場する劇や映画も見ないようにしていた。「事、精神病院に関するとなると、私を尻込みさせ、恐怖さえ抱かせる」と語る主人公は、ある女性作家が大きな病院の内情を描いた作品を持ち込んできたときにも、「僕は精神病院のことには食傷してるんです。精神病院のことを考えると、頭が痛くなるんです。どうかして忘れたいと思ってるんですから、折角ですが、勘弁して下さい」と言って、断った。

また、別の新進作家から、戦争中の精神科病院を取材した小説の感想を求められたときも、「小生は精神病院と聞くと、途端にやりきれなくなります。御作を読んで、そのやりきれなさが蘇って来るのを、小生は恐れます」と言って断ったという。主人公にとって、精神科病院の思い出は、15年近くたっても頭痛や忌避的な感情などのPTSD的な症状を引き起こすほどの体験だったのである。

そのため彼は、息子にとっても、精神科病院は母親の運命と関連する悪夢だと思い、その息子が精神科病院の設計を手掛けたということにショックを受けたのだが、やがて彼は、息子は母親の運命を噛みしめながら、この白くて洒落た近代的な病院の設計をしたのではないか、と思うようになる。「自分の母親の不幸な運命を思うにつけ、母親の後から来る病人達のために、自分の持っている技術を少しでも役立てようと奮い立ったのではないだろうか。それらの病人が、少しでも快適に、少しでも幸福に過し得られるようにと念じながら、一線一画に精魂を籠めて、設計の図面を引いたのではなかったか」。

そのように思い至った主人公は、息子がこの病院の建築を手掛けたことは、精神科病院が「瘋癲病院」とか「癲狂院」といった忌まわしい名前で呼ばれるのを払拭するのに力を貸すことになるだろうと思い、息子に対する感動が湧いてきたと言う。

『狂院幻想』には、かつて妻を精神科病院に入院させた体験が、永年にわたって後遺症のように夫に影響を及ぼし続けるという事実とともに、より快適な精神科病院を設計することで過去を乗り越えた息子の姿も描かれているのである。

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