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鎌倉と博多[エッセイ]

No.4938 (2018年12月15日発行) P.66

太田一樹 (鎌倉女子大学教授)

登録日: 2018-12-16

最終更新日: 2018-12-11

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博多は、古代には大宰府の外港として、中世には大商人による日本史上初の自治都市として栄えた。私は博多を中心に臨床と研究に携わってきたが、縁あって鎌倉の地に参り、鎌倉と博多との間で様々なつながりがあることを知ったので紹介したい。

鶴岡八幡宮と筥崎宮

全国に約4万4000社ある八幡宮のうち日本三大八幡宮として、宇佐神宮(大分県)、石清水八幡宮(京都府)とともに、鎌倉の鶴岡八幡宮(鎌倉市雪ノ下:図1右①)あるいは博多の筥崎宮(福岡市東区:図1左①-1)が数えられている。

鶴岡八幡宮は、源 頼義が京都の石清水八幡宮を鎌倉の地に勧請したのが始まりである。

筥崎宮の名は、神功皇后が八幡神と同一とされる応神天皇を出産した際、胞衣を箱に納めて埋めた故事に因んでいる。なお、応神天皇が生まれた場所は博多周辺の宇美八幡宮(福岡県糟屋郡:図1左①-2)の建つ場所と伝えられている。筥崎宮は、鎌倉時代に元寇で戦場となり、炎上してしまったため、その再興にあたり亀山上皇が宸筆を納められたことでも知られている。

博多は、元寇において、文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)ともに、主要な戦場となっている。博多には防衛のために築かれた約20kmに及ぶ石による防塁(元寇防塁)や、元軍が陣を構えた祖原山(福岡市早良区:図1左①-3)などが残っている。

江島神社と宗像大社

湘南を代表する景勝地である江の島(神奈川県藤沢市:図1右②)の江島神社には、福岡県宗像市に総本社がある宗像大社(図1左②-1)の宗像三女神が祀られている。江の島は、古来宗教的な修行の場で、平安時代には弘法大師や慈覚大師らも修行したと伝えられている。

弘法大師や慈覚大師は、博多を経由して唐に渡っている。弘法大師は帰朝後、博多に東長寺(福岡市博多区:図1左②-2)を開基し、数年間大宰府に滞在している。

建長寺と大覚禅師

鎌倉五山第一位建長寺(鎌倉市山ノ内:図1右③)の開山である大覚禅師は、中国西蜀四川省に生まれ、1246年に来日して鎮西奉行である藤原道信の帰依を受け、博多の圓覺寺(福岡市博多区:図1左③)に滞在した。その後、執権北条時頼により1253年に建長寺が創建されると、招かれて開山となり、宋風の本格的な臨済禅を広めた。

円覚寺と元寇

夏目漱石の『門』にも描かれた鎌倉五山第二位円覚寺(鎌倉市山ノ内:図1右④)は、元寇による殉死者を敵味方の区別なく平等に弔うために建てられた寺で、1282年に執権北条時宗の帰依を受けた無学祖元禅師により開山された。

寿福寺と栄西禅師

臨済宗の開祖栄西禅師は、宋からの帰国後、 源頼朝を開基として、日本最初の禅道場である聖福寺(福岡市博多区:図1左⑤-1)を建立した。その後、京都を経て鎌倉に下向し、北条政子に迎えられ、鎌倉五山第三位寿福寺(鎌倉市扇ヶ谷:図1右⑤)の開山となった。

栄西禅師は薬草として現在の日本茶をもたらしたことでも知られ、長崎県平戸や、福岡県と佐賀県との境にある脊振山(図1左⑤-2)に茶園を開いたとの言い伝えが残っている。

鎌倉仏教

曹洞宗の開祖道元禅師は、執権北条時頼の招きで名越の白衣舎(鎌倉市大町:図1右⑥-1)を本拠地として鎌倉で説法を行った。 道元禅師は、博多湾あるいはその近郊から入宋している。入宋する前後のいずれかは不明であるものの、九州を巡観した言い伝えが、明光寺(福岡市博多区:図1左⑥-1)をはじめ各地に残っている。

時宗の開祖一遍上人は、1282年、鎌倉に入ろうとするが禁止され、片瀬の浜(藤沢市片瀬:図1右⑥-2)で踊り念仏を行って大成功をおさめた。一遍上人は若い頃、大宰府で10年以上にわたり浄土宗を学んでいる。

鎌倉のマザーテレサと称され、極楽寺(鎌倉市極楽寺:図1右⑥-3)を中心に貧者や病人の救済に邁進した忍性菩薩は1248年、中国から律三大部をはじめ戒律関係書を携え帰国した同門の僧を迎えに九州を訪れている。また、元寇の際には、鎌倉幕府の命を受け異国退散の祈禱を行っている。

数々の法難に遭いながらも、鎌倉を中心に活動を行った日蓮宗の開祖日蓮聖人は元寇とも縁が深く、福岡県最初の県立公園である東公園(福岡市博多区:図1左⑥-2)には、東京美術学校の岡倉天心が依頼を受け、竹内久一が原型を製作した日蓮聖人像(像高10.6m、市指定文化財)が建っている。

和賀江島と往阿弥陀仏

中世の博多は、日宗貿易の一大拠点として栄えた。一方、鎌倉幕府の内港は水深が浅く、船の行き来は困難であった。このため、1232年、勧進聖の往阿弥陀仏により湾岸整備がなされ、和賀江島港(鎌倉市材木座:図1右⑦)として、諸外国からの大型の船も着岸できる一大商業港となった。なお、往阿弥陀仏は和賀江島築造の前年に、博多に近い葦屋津の新宮浜(福岡県遠賀郡:図1左⑦)において築島を行っている。

沽酒の禁

1252年、鎌倉幕府は酒の販売を禁止した(酒の禁)。この禁令により、鎌倉だけで3万7274個の酒壺が破壊されたという。しかし、禁令後も筑紫の国(福岡県)から土榼と称する樽が鎌倉に大量に流入したとの記録が残っている。土榼の中には酒が入っていたと考える研究者も少なくない。

鎌倉幕府滅亡と多々良浜の戦い

1333年、鎌倉に攻め入った新田義貞の軍勢によって約150年続いた鎌倉幕府は滅亡した。新田義貞が、稲村ヶ崎(鎌倉市稲村ヶ崎:図1右⑨)において太刀を海に投じたところ、潮が引いたという逸話は有名である。同年には、博多にあった鎮西探題も攻め落とされている。

鎌倉幕府を倒す大功を立てた新田義貞であったが、1336年、建武の新政に反旗を翻し、九州まで落ち延びた足利尊氏を追った新田義貞の軍勢6万騎が、赤松円心以下2000の兵が立て籠もる白旗城(兵庫県赤穂郡)で釘付けになっている間に、足利尊氏は軍勢を立て直し、多々良浜の戦い(福岡市東区:図1左⑨-1)で圧勝して一気に形勢が逆転した。1338年、新田義貞は燈明寺畷(福井県福井市)で、足利方の軍と乱戦の中、戦死している。その2年後、新田禅師と称する南朝方の武将が一貴山(福岡県糸島市:図1左⑨-2)で挙兵したとの言い伝えが残っている。

大船観音寺

JR大船駅のシンボルにもなっている白衣観音像(鎌倉市岡本:図1右⑩)は、福岡市中央区出身の金子堅太郎を発起人筆頭として、頭山 満(福岡市早良区出身)、清浦圭吾(熊本県山鹿市出身)、浜地天松(福岡市中央区出身)、花田半助(福岡県宗像市出身)らにより、1929年に建立工事が着手された。しかし、世界恐慌という世相の中で工事は中断してしまった。

戦後になり、未完のまま放置されていた観音像を憂慮し、浜地天松と親しかった曹洞宗十八代管長高階瓏仙禅師(福岡県嘉麻市出身:図1左⑩)らの働きかけにより、高階瓏仙禅師、安藤正純、五島慶太らが発起人となり、彫刻家山本豊市が陣頭に立って、1960年に完成した。

なお、大船観音寺の本尊であり秘仏の観音菩薩立像は平安時代後期の作で、福岡市博多区出身の彫刻家、山崎朝雲が像本体の修理、光背の補作を行っている。

こうして日々思ってきたことを書き出してみると、宗教的な内容が多いことに気づく。これは、特に中世が宗教の世紀であること、そして鎌倉には神社仏閣が多く残されていることも理由のひとつであると思われる。直線距離でも800km以上離れた鎌倉と博多において、日々、人や物、情報がどのように行き来していたのか、思いは尽きない。

【参考】

▶ 松尾剛次:中世都市鎌倉を歩く─源頼朝から上杉謙信まで. 中央公論社(中公新書), 1997.

▶ 大庭康時, 他 ,編:中世都市・博多を掘る. 海鳥社, 2008.

▶ 峰岸純夫:新田義貞(人物叢書). 吉川弘文館, 2005.

▶ 升本喜年:大船物語─撮影所のある町. ホンゴー出版, 1988.

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