私どものNCGM国立国際医療研究センター病院1階の展示室には森鷗外(林太郎)が使ったとされる執務机が展示されている。鷗外は明治末期に2度〔1893(明治26)〜1899(明治32)年と1906(明治39)〜1907(明治40)年〕陸軍軍医学校長を務めたが、その校長室にあったのがこの机であったという。
NCGMの前身は国立東京第一病院で、戦前は陸軍病院であった。正確には陸軍本病院、東京陸軍病院、東京第一衛戍病院、東京第一陸軍病院と名称は変遷している。軍医学校は本院に併設されてはいたものの同じ組織ではないので、鷗外は当院OBではないのか、とさらに調べると、1881(明治14)年12月から約半年間、陸軍軍医副(中尉相当)として勤務していたことが判明した。鷗外に関する書物によると、1881年に東京大学医学部を19歳で卒業した鷗外は、ドイツ留学の志強く、軍医としての留学をめざした。留学前の約半年間ではあったが、間違いなくNCGMの前身である東京陸軍病院治療課に勤務していたので、当センターOBということになる。
留学までの道程は平坦ではなかったようである。鷗外は努力の末に1884(明治17)年留学を実現し、4年間ベルリン、ライプチヒ、ドレスデン、ミュンヘンに滞在して、細菌学の巨匠ロベルト・コッホなどに師事した。軍陣衛生学が専門で、研究だけでなく、ドイツ陸軍との交流を深めた。と同時に、ドイツ語に堪能であった鷗外の語学力が見込まれて、1887(明治20)年9月にカルルスルーエで開催された万国赤十字会議の代表団の一員となり、石黒忠悳団長を補佐したという。詳細は誌面の関係で省略するが、特に会議におけるヨーロッパ諸国中心の議論に唯一のアジアからの加盟国日本として一石を投じることができたのは、鷗外による発言が大きかったことが知られている。
また、ナウマン象やフォッサ・マグナの発見で有名なドイツ人地質学者エドムント・ナウマンと新聞紙上で論争をした。日本で十年余の研究生活を終えてドイツに帰国したナウマンが、1886(明治19)年3月と6月にドイツで行った講演の中で、日本の鎖国からの開国は外圧による受動的なもので、その近代化の本質は西欧の模倣に過ぎず浅薄なものである、というような趣旨の発言をした。それを聞いて憤慨した鷗外は、夏期休暇を利用して反論を執筆し、同年12月に同じ新聞に寄稿して掲載された。翌年1月にナウマンからの反論があり、さらに2月に鷗外からの再反論が掲載されたという。
山崎一穎氏(参考文献参照)によると、鷗外の反駁には無理な論理展開もあったようではあるが、日本から来た24歳の若者が日本の名誉を守るためにドイツの著名文化人に対して論争をしたこと自体が痛快である、とともに鷗外の才能と愛国心に感動を覚える。
ところでNCGMは2017年、パリのパスツール研究所と包括協定を結び、熱帯感染症などの研究を共同で行うことになった。パスツール研究所は世界に三十数カ所あり、これまでもラオスやセネガルのパスツール研究所と研究連携の実績がある。これからはさらにグローバルな規模での共同研究が発展するのではないか、と期待される。鷗外の評伝を読んでいて、4年間の留学を終えて1888(明治21)年秋、帰国する際にベルリンから陸路パリに立ち寄り、その際にパスツール研究所を訪問したという記載を見つけた。2018年2月にパリのパスツール研究所を訪問する機会があったので、その際に1888年の鷗外訪問の記録があるかと尋ねたところ、残念ながら何も残っていなかった。パスツール研究所のホームページによると、パスツール研究所の組織は1887年に設立していたが、建物は翌1888年11月に完成したとされている。
『森鷗外全集』全38巻(岩波書店刊)が当センターにあったので、調べてみることにした。鷗外は日記をまめにつけていたようで、その多くが全集に収蔵されている。帰国時の旅日記は「還東日乗」と呼ばれる。その1888年7月25日の記述に、パスツール研究所を訪問したことが書いてあった!カタカナ交じりの文語文(オリジナルは漢文だったという)で、それによると、研究所を訪問したもののパスツール本人(当時65歳で1895年まで存命)には会えなかったとある。研究所建物の完成がその年の11月であるから、工事中の研究所を訪問したのであろうか?鷗外訪問を証明するものはパリには残っておらず、唯一日本にあるこの旅日記のみである。この事実を確認したとき、鷗外を介して130年の歳月を経てパスツール研究所とNCGMがつながったような感動を覚えた。
ところで、陸軍病院のさらに源をたどると1868年10月に江戸城山下門内に設置した兵隊仮病院に行き着く。山下門は今残っていないが、現在の日比谷公園から帝国ホテルのあたりであったらしい。
そこから数えて昨年150年となったため、NCGM 150周年をお祝いすることになった。森家のご許可のもと森鷗外を150周年事業のシンボルにさせて頂き、職員一同先人の業績を学び感謝するとともに、未来に向けて決意を新たにしているところである。
【参考】
▶ 山崎一穎:森鷗外 明治人の生き方. ちくま新書237. 筑摩書房, 2000.
▶ 小堀桂一郎:森鴎外―日本はまだ普請中だ. ミネルヴァ日本評伝選. ミネルヴァ書房, 2013.