北津軽で開業していた父が急死し、母校東邦大学第1内科で働いていた私は、33歳で急遽青森に戻り、診療所を引き継ぎました。ご縁があり47歳から再び東邦大学に勤務しています。思いがけず青森を離れ、東京で大学教員をしていますと、依頼される原稿にしばしば登場願うのは「津軽」「蝦夷」のキーワードです。
東北は内裏からまさに陸の奥。平安時代には箱根の山から東には鬼が棲むと恐れられ、白河の関より北には妖怪が棲むとされ、まだ見ぬ陸奥の民は蝦夷と蔑まれつつも、自然の恵みを提供してきました。坂上田村麻呂、源義家、豊臣秀吉など歴史に残る侵攻に対しては、凛として立ち向かう指導者を生み出し、また数年間隔でやってくる飢饉、数百年周期で突然襲いかかる大地震・津波は、否応なく耐える伝統を育んだようです。長い冬には息をこらえて吹雪を駆け抜け、土が顔をみせるまでは書に向き合い春に備える。蝦夷と蔑まれても、決して侮られることがないよう独立心旺盛な気質が育まれ、一方では大義なき侵攻を忌み嫌う潔い風土が熟成されてきました。食の自給能力は独立心の大きな支えとなりましたが、食するために育てる矛盾にも悩み、祖先を手厚く供養し、生き物を慈しむ心が育ち、多くの民間宗教を生み出してきました。
東北とは不思議なところです。自己主張は少なく、黙々と過ごし、多くの災害、飢饉においても自力で復興してきました。保守的、排他的とされますが、時の権力から人種差別とも思われる侵略を受けた際には、毅然として独立を求めて戦った歴史があります。歴史を顧みると、東北人は決してアドバンテージを求めてこなかったのです。あえて、アドバンテージを求めない気概は医療現場、特に医学教育では重要です。『日本書紀』によると、蝦夷の中で最も遠い「都加留」は独立の気配が濃厚で、戦でも負けることを知らない。太宰治は『津軽』にこう書いています。「弘前の城下の人たちには何が何やらわからぬ稜々たる反骨があるやうだ」。
こんな気風を学生・研修医に伝え、東邦大学の校風にしたいと願っています。