蚊もちらりはらりこれから老いぞ世ぞ
蚊が出はじめた。自分はいよいよ老境だ、という意の句を小林一茶がよんだのは、何と58歳のことであった。人が老いを自覚するきっかけはそれぞれであり、その年齢も時代によって違ってくる。
私の場合、70歳を過ぎて仕事場と自宅が同じであったこれまでの環境からようやく解放されたとき、何かの始まりを意識させられた。定年を自らの意志で定めた者は、鍵一つで私生活を外界から遮断できる今の境遇を、どうしても山中の隠士になぞらえてしまう。
このような生活を、人は昔から「余生」などと呼んできた。それに反発するかのように、「余りを生きる」のでなく生涯現役を貫け、とはやし立てる者もいる。人生100年時代のライフバランスを考えよう、などという主張も多い。仕事に精を出していた頃には、私もそれにくみするひとりであった。だが、環境の変化はせっかく与えられた「人生の小春日和」をもっと自在に過ごせ、と私を促す。
過剰な仕事や付き合いから解放され、余計な欲や見栄やこだわりが抜け落ちてくると、本当に好きなもの、大切にすべきものが、瞳を洗われるようによく見えてくる。自由にできる時間も増えてきて、もう楽しいことを後回しにしなくてよくなるのを実感する。
とはいえ、自由であることは人を怠惰にさせる危険性を孕むことである。人生の第二幕目は自律的なものでなければならない、天野忠の詩「老い」の一節に「老いは/成熟した青春である、と/利口な若い作家が語った」とある。
多忙でも閑雅でもいいが、とにかく虚しい時間だけは過ごしたくない。散るまで美しい花のように、意味のある生を全うしたいものである。