本棚の奥に高橋和巳の小説『悲の器』を見つけた。その作品を読んだのは1973(昭和48)年頃だったと思う。地方の大学にも未だ学生運動の余韻が残り、立て看板、ビラ配り、デモやセクト間の小競り合いもあった。そんな時代に出会った作品を再び読んでみた。医学部進学課程の有り余る時間をかけて読んだ一冊。心理・情景描写が緻密で、法律用語ほかの難解な表現が多く、文字比重の高い作品だ。
『悲の器』の主人公の正木典膳は55歳の法学部教授。同居する家政婦米山みきに不法行為で告訴される、という場面から小説は始まる。時間軸は過去に遡り、主に正木典膳の独白で物語は進行する。
正木典膳は戦前の思想弾圧の時代に検察官として体制内部にあり、戦後は大学人として刑法学の研究に携わってきた。法学部長で学長候補に叙せられた華やかな経歴、それとは対比的な男女間の醜聞に、彼は突然見舞われた。米山みきとは、病死した妻の療養中から内縁関係にあった。破滅に向かう過程をたどる物語。
「老い」を纏った正木典膳は何故陰鬱で気難しいのか、どうして堕ちていかなければならないのか、若かった自分には不思議だった。ある友人は、「知識人の滅びの一類型」と言い捨てた。確かに、正木典膳は知識人。辞書的には知識を蓄え、知性的、批判的、分析的思考を行い、普遍的価値として正義、真理を語る者。侮蔑的な意味合いもある。
では、「老い」の対極の「若さ」とは何か。高橋和巳の文章を引用すれば、「みずみずしい憧憬とか理想」であり、「いずれはついえ去るものであっても、消え去るまでの期間には、それが無限の価値であるようなもの」。今の自分には納得できる定義だ。
人は生きることの悲しみを一杯に湛えた『悲の器』。そのことが二十歳前の自分にはよくわからなかったかもしれない。
39歳で病没した作家の年齢を遙か昔に、そして作品中の正木典膳の年齢さえ私は越えてしまった。周りで知識人という言葉を聞かなくなって久しい。自分が老人になったのは事実、きっと正木典膳と同じ気難しい老人なのだろう。