今まで機嫌よく遊んでいた可愛い孫が、にわかに体を折り曲げて苦しみだしたのに気づいたバァバン(祖母)。心配そうに、
「なんだァエ?ドガしただ?この子はまァ、蒼い顔して!脂汗出イトルデェ、エライだかァ?」
「ン……。腹が痛い」
「腹が痛い?そらエライこった!ドガに痛いだァ?チクチクすッだか?」
「ちがう」
「なら、シクシク痛むだかァ?」
「うんなャ」
「ほんなら、ジーンとくるだかいナ?」
「?……」
「それとも、キリキリッとさしこむだか?」
「ウーム。チクチクでもシクシクでもキリキリでもないワイ。ああエラッ!ウーム」
「そら、腹がニガルだわいナ、そうだラァガナ。よしよし、バァバンが今な、セーログァン飲ましたげるケェナァ、待っとんサイエ」
いやはや、バァバンの、この感覚的質問攻めに、孫も病む腹を押さえながら、カワイヤ文字通り眼を白黒させている。
そもそも「痛い」という日本語は1つしかないのである。その貧しさを補うために、「痛い」の前へ、“キリキリ”“ジーン”“シクシク”“チクチク”“ズキズキ”“キューッ”などと、感覚的擬音語みたいなものを持ってきて修飾限定しなければならない始末だ。
いうなれば「痛い」の内容別細分化である。
それにしても、このバァバンが口にした「腹がニガル」症状というのは、いったいどんなことなのか。はたして、孫が理解しただろうか。
だいたい「痛さ」の中身を外へ取り出して他人に見せることなんかできはしない。A君の痛みとBさんの「痛み」とが、完全に同一である、という説明は不可能だ。
にもかかわらず、なんとなく親から子へ、子から孫へとこれらのことばは伝わってゆき、そして、なんとなく、わかったつもりでいるのは、奇妙といえば奇妙であろう。