橋本脳症という疾患の特集を本誌で監修したご縁で、この執筆の機会を得ました。
橋本脳症は、慢性甲状腺炎(橋本病)に伴う自己免疫性の精神神経疾患です。いうまでもなく橋本病は、100年以上前に日本人の橋本策氏が提唱した疾患で、内分泌疾患と自己免疫疾患の2つの顔を持つ、当時としては画期的な疾患概念でした。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、橋本病の発表当初は日本では注目されることはなく、ドイツの医学雑誌〔Archiv für klinische Chirurgie(Berlin), 1912〕に掲載されたことを契機に世界的に認められ、日本でも認識されるようになりました。
橋本病に合併する橋本脳症も、50年以上も前に英国で最初の1症例が“Lancet”誌に報告されたものの、四半世紀の間、医学会で注目されることはありませんでした。一時は、橋本脳症という疾患の存在にさえ疑義が唱えられた時期もありました。私が最初にこの病気の患者に出会った20年前には、国内外でもほとんど知られていない病気でした。
長い医学の歴史を振り返ると、新しいものや今までの常識にそぐわないものは、最初は受け入れてもらえないことがよくあります。強酸性の胃液の中で生存するヘリコバクター・ピロリ菌の存在を最初から認めた人はどれくらいいたでしょうか。今では常識となっている、プリオン病、レビー小体型認知症もしかりです。そして、これらの多くの疾患は、若い医師や研究者の柔軟な発想と情熱によって成し遂げられた偉業です。
現在、1つのテーマで医学研究を始めようとすると、実験・臨床計画の倫理委員会申請、動物実験・遺伝子組換え・病原性微生物の申請やCOI申告など、山ほどの書類を書かなければならないのが現状です。それらの一部の審査に、自身自身も関わっている身からすれば、大変な事務作業ではありますが避けられないものと考えます。しかし、新しいことを考え出す発想に関しては誰も制約を受けることはありません。若い医師や研究者は、研究費の削減や書類の煩雑さに負けることなく、知的好奇心を持ち新しいものを見つけ出してほしいと思います。皆が正しいと思っていることの中にこそ、疑いを持つ目も必要と考えます。「右を向きなさい」と言われたら、時には、左を向いてみることも必要かもしれません。それによって、新しい地平が見えてくることがあります。齢60となった、一人の医師・研究者の独り言として聞いて頂ければ幸いです。