7年間の本誌連載小説を終えてほっとした昨年5月、八丈島の観光ツアーに参加した。
植物園、東京電力の風力発電所、黄八丈を織る職場などを見て回ったあと、島の大賀郷にある宇喜多秀家(備前岡山57万石城主)の墓と屋敷跡を訪れた。
ガイドさんの説明によると、関ヶ原の合戦に敗れた秀家は若妻豪姫(前田利家四女)の必死の助命嘆願によって極刑だけは免れたものの、遠島に処せられた。
1606年5月、秀家(34歳)と2人の息子(15歳と8歳)、そして家臣ら一行12人と、加賀藩医の村田助六(道珍斎、33歳)が八丈島の流人屋敷に入った。村田医師が同行したのは豪姫の切なる願いを加賀藩が受け入れたからだ。
流人屋敷跡は崖上にあった。眼下に村落が拡がる快適な場所だったが、今は数十坪の平地に表示板が立つのみで、井戸や土台など往時を忍ばせるものは見当たらなかった。
葛西重雄『八丈島流人銘々伝』(第一書房刊)や中西淳朗「八丈島に流された医師たち」〔日医史誌. 1997;43(4): 556-7〕によると、2年に1度、加賀藩から米70俵と金子35両、衣類、医薬品、雑貨が送られてきた。しかし、それも次第に間遠となり、日頃は粟や稗にアシタバや海草を混ぜたお粥を口にした。飢饉の年は悲惨で、島民の診療に尽す村田医師が謝礼にもらう食糧だけが頼りだった。その後、秀家の長男は島代官の娘と結婚して2子をもうけ、次男も島の娘を現地妻にして2子を授かった。50年あまり不自由な配所生活を送った秀家は、84歳で逝去した。異例の長寿を保ったのは雑穀・野菜・魚肉を主とする食生活と畑仕事、そして村田医師の健康管理に支えられたからであろう。なお、長男は58歳で、次男は60歳で他界している。
不運だったのは流刑地勤務を命ぜられた村田医師である。罪人でないのに秀家が死去した後も加賀藩から帰国の許可がおりず、在島53年で一生を終えた。享年86。村田医師の子孫も代々島にあって1870(明治3)年まで265年間、帰参が叶わなかった。
鹿児島県下甑島の手打診療所で33年間にわたり島民3000人の診療に献身した瀬戸上健二郎医師は人気漫画「Dr. コトー診療所」の天才外科医のモデルとなった。この記録を上回る53年間、八丈島住民の健康管理に専念した村田医師は、「離島診療の先駆者」と称するのがふさわしかろう。