『広辞苑 第六版』によれば、忖度とは、「他人の心中をおしはかること。推察」、斟酌とは、「その時の事情や相手の心情を十分に考慮して程よく取り計らうこと。手加減すること」である。すなわち、忖度は心の中の思いに留まるが、斟酌には思いを何らかの行動として示すことが含まれる。官僚が政治家の思いを忖度しても問題ないが、斟酌すると疑義を生じる場合がある、ということである。
一方、これらの言葉に加えて「配慮」、「察し」などで表現される気配りや心配りは、情報開示を基本とする患者の自己決定権の尊重が強調される現在の医療現場においても、医療者に求められる大切な資質である。
医師から余命告知を受けたがん患者が精神不安定になり、治療を継続できず死亡したとの記事が、医療者を対象としたネットニュースに掲載されたことがある。これに対してネット上の書き込みには、現在のがん医療では、治療の選択に際して、告知は避けられないとする意見が多くみられた。他方、このことを声高に主張する医師に対する批判や、がん告知と余命告知の相違を指摘する意見もあった。がん告知、余命告知の難しさを考えさせられる。
医師は長い間、聖職者の役割も担いながら、生命という最も大切なものを不完全な知識や技術で扱うギャップを、患者との縦の信頼関係で埋めてきた。しかし、「医師と患者は平等」、「患者の知る権利」という意識の浸透とともに、医師は、この信頼関係を頼りとする医療を止めた。そして患者は、自らの病名や余命を告知され、時として消化しきれない不安を背負うことになった。医師にすべてを任せ、「知らぬが仏」を望んでも仏になれなくなったのである。
一方、医師は不治の病を告知しないことに伴う苦悩から解放された。しかし同時に、患者の死に至るまでの日々を、患者の心を察し、寄り添いながら共に病と闘う、すなわち「病人を診る医療」が一層、求められることになった。余命を告知したことで患者が生きる希望を失っているときに手を差し伸べなかったとするならば、その責任は重大である。