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坪井信道(1)[連載小説「群星光芒」179]

No.4766 (2015年08月29日発行) P.68

篠田達明

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-02-14

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  • 坪井信道は切羽詰まった。今ここで手をついて頼まねば一生後悔するだろう。

    信道は思い切って口にした。

    「兄上、お願いします。どうか今しばらく江戸に留まることをお許しください」

    兄のこめかみにみるみる青筋が立った。

    「この大馬鹿野郎!」

    兄は顔面を真っ赤にして怒鳴った。

    「あのときおまえはなんといった。江戸へ出たら刻苦勉励して名医になり、上方で開業して坪井の家名を挙げます、と誓ったではないか。その固い約束をないがしろにするつもりか!」

    「いいえ、兄上との大事な誓約です。1日たりとも忘れたことはありません」

    「では、なぜ守ろうとせぬ」

    兄の浄界は口角から泡をとばして声を張りあげた。

    そのとき小坊主が茶菓子を持って方丈に入ってきたが、浄界の権幕に驚いて茶托を置くと逃げるように去った。

    「由緒あるわが坪井家を再興するため、おまえを3年間江戸へ修業にやった。3年経ったとき、あと3年といってきおった。それもなんとか許した。その期限が過ぎてまたもや江戸に留まりたいとは、いったい、どういう了見だ」

    「このほど恩師の宇田川玄真先生が亡くなられ、手前は塾生たちから亡き師に代わって蘭方指導をするよう懇願されました。どうか塾が順調になるまで江戸に留まることをお許しください」

    だが、河内葛城山中の高貴寺に身をおく僧侶の兄に、信道の江戸蘭学界に占める地位と立場など判るはずもない。

    「おまえがなにほどの蘭方医者か知らんが、約束を破るようではろくな指導者にはなれまい」

    頑固一徹の兄は一度決断したら容易に曲げる性格ではない。浄界は赤鬼のように目をむいて信道を睨みつけた。

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