伊東玄朴は江戸の儒者大槻磐渓の子女に種痘を施したことがあった。磐渓は蘭学の大先輩大槻玄沢の次男で、『象先堂』の名付け親になるほど玄朴と親しかった。
「あれは天保12(1841)年の正月じゃけん」
と玄朴は大槻俊斎に話した。
「長男が痘瘡にやられたと磐渓殿がわしの医院に駆け込んできた」
だが生後10カ月の長男は既に手遅れで2日後に急逝した。野辺送りを済ませた磐渓は悲しみを抑えつつ玄朴に訊いた。
「痘瘡に斃れるまえに子どもらを救う道はないものか」
「ひとつ人痘を植える方法がある」
と玄朴は答えた。
「健常な子供の上膊内側に発泡膏を貼って小な水疱をつくる。つぎに病児から痘痂を採って液に漬ける。その液を健常児の水疱に注ぎこみ、鶏卵の薄皮で蓋して包帯を巻く。7日から10日くらい待つと真性の痘瘡ば発症するけん、ごく軽い症状で済み2度と本物の痘瘡に罹らんたい」
「しからばそれを町民に広めてはどうか」
「人痘ば試す家族が見つからん」
「ならばわしの長女に試してくれ」
玄朴は患児から採った痘痂を長女(5歳)の上腕に植えてみた。すると局所が発痘して善感が得られた。
悦んだ磐渓は、次女、次男、3男と次々に人痘を植えてもらい、すべて善感を得た。
「これほど効き目があるなら、なぜ市中に広めぬ」
磐渓は怪訝な顔をした。
「ばってん、人痘法は痘瘡の流行時にしか実施できぬ。牛の痘苗ば用いる牛痘法が広まれば常時接種ができるけん、江戸では入手がむずかしか」
天保14(1843)年暮、佐賀藩主の鍋島直正が江戸詰めになった際、佐賀藩一代士だった玄朴は御匙医に取り立てられた。
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