「江戸へ赴くべきか、それともこのまま大坂にとどまるか……」
緒方洪庵は鼻梁の高い鼻をかたむけて思案した。
「わしの本心は大坂から離れたくない。なによりも『適塾』や『除痘館』の今後のことが気に掛かる。そもそもわしは生来の病弱だ。今年53歳を迎えた老境の身で江戸へゆけば苦労をするのは目にみえている」
しかし……、と洪庵はため息をもらした。
「ゆうべ飛脚便で届いた将軍家奥医師の伊東玄朴殿と林 洞海殿が連署した依頼状は、わしの思惑など吹き飛ばさんばかりの強い調子で書かれていた」
洪庵はふたたび手許においた玄朴自筆の依頼状に目をむけた。
「このたび貴殿を奥医師にお招き申し上げる。貴殿の招聘は上様御台所となられた和宮親子内親王の御為であり、また上方で高名な貴殿がわが奥医師陣に加われば御悦びもひとしおとの御意向もお有りなさる。今回お断りされては御身のために宜しからず、先祖への孝、子孫の栄のためにも奮発せられたし」
とりわけ、「断っては御身のために宜しからず」の一行に胸をど突かれた気がして洪庵は動揺した。
これまでも公儀のその筋からは何度も奥医師就任をいざなう手紙が届いたのだが、そのたびに洪庵は断りつづけた。
ついに業を煮やした西洋医学所取締役の伊東玄朴が直談判のごとき書状を送りつけてきたのだ。
残り1,657文字あります
会員登録頂くことで利用範囲が広がります。 » 会員登録する