明治13年生まれの父方の祖母は、わたしの知る頃には極度に外出嫌いの人であった。へっついの前、炉辺が祖母の全宇宙であったろう。竃で炊いた御飯、囲炉裏で焼いた魚は絶品で、あの味は忘れ難い。また、年末にわが家の大人達および応援の旧小作の人達がついた餅を、正月に炉辺で焼いてくれたあの味も懐かしい。口数少なく黙々と大家族であったわが家の家事をこなす印象しかない。後で他人から、若い頃は在所の小町と呼ばれ活発な人であった、と聞かされた。その片鱗を思わせるエピソードがある。
父(祖母の末っ子)が太平洋戦争も山場を迎えた頃、砲兵として再召集された。父の体格から山砲はありえない。祖母はその一点で理不尽に思ったそうだが、それだけ戦局は逼迫していたのだろう。末っ子の必死を感じたものか、どこでもれ聞いたか不可知だが、厳冬の深夜、金沢駅にかけつけた。時局柄極秘出立であったという。そこで腹の底からしぼり出した大声一番「〇〇はおりませんか、母です」。あまりの迫力に上官が仕方なく「オイ、答えてやれ」と言ったそうだ。わが家の伝説である。
祖母は8人(3男5女)子を成したが、戦争前に男2人を含む3人を失っていた。すべて感染症であった。4度目の逆縁を覚悟した時、あの大音声が出たのであろう。当時の庶民の絶叫であったと思う。父は運よく帰還を果たしたが、わたしの中二の年に39歳で亡くなった。祖母の胸中は察するにあまりあるが、わたしの前で涙を見せなかった。
父が逝った翌年の正月、いつものように炉辺で餅を焼く祖母の姿があった。わたしは何を思ったものか? あの伝説は本当か、と問うたものだ。と、その時、持っていた餅焼用火箸を灰に突きたてたかと思うと、じっと見つめ返し、胸を張り「バァバァの一念であんたの親が生きて帰ってこれたのや」。誇らしげにいう顔から涙がこぼれ落ちた。祖母の年齢に近づきつつあるこの頃、正月を迎える度に祖母の炉辺での佇まいを思い出す。