イタリア・シチリア島でパレルモに次ぐ第2の都市カターニアは島の東海岸に位置し、背後に活火山エトナを控え、北東海岸沿いに風光明媚なタオルミーナを有する。
カターニアは、ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(一世を風靡した世界的ソプラノ歌手、マリア・カラスの代表的オペラ『ノルマ』の作曲家)だけでなく、素粒子理論物理学者で、トロイアのプリアモス王の第一王子へクトールの名を持つエットレ・マッヨラーナ(Ettore Majorana,1906〜38?年)も生んだ(Ettoreはイタリア発音で、英語ではHectorとなる)。
マッヨラーナについては、同じシチリア生まれの作家、レオナルド・シャーシャーが、『マヨラーナの失踪』1)という書を1977年に著したが、さらに2009年に『マヨラナ─消えた天才物理学者を追う』2)が出版された(筆者注:日本ではマヨラナと記載されているが、正しいイタリア語ではマッヨラーナである)。著者はポルトガル出身の理論物理学者ジョアオ・マゲイジョ。この人は一風変わっていて、母国の独裁政権が倒れた7歳時に教会学校で先生の尻をつねって放校となり、11歳時から「物理学と数学の独学の道」を歩み始め、15歳の時「学校教育の偽善」について過激なレポートを書いたため退学させられ、現在はロンドンのインペリアル・カレッジの理論物理学教授である。面白い内容なので紹介する。
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同書は、そうそうたる著名な物理学者たちを滅多切りにし、これまでにない辛辣な皮肉をこめ痛快にやり込めている。
たとえば、エンリコ・フェルミ(1938年ノーベル物理学賞受賞)だが、彼は1932年になるまで中性子の存在を完全には信用していなかったとある。当時すでにマッヨラーナは中性子の存在を示す完璧な証拠をノートに書き付けていたが、燃やして灰にしてしまう。後日フェルミの元にイギリスのチャドウィックの中性子発見の情報が届く。フェルミは「自分が何をしたか、分かってるのか?」と怒鳴りつけるが、「何がいけないのか。結局は誰かが発見したじゃないか」とマッヨラーナは取り合わない。
彼にとって研究はそれ自体が楽しいからであり、義務感や目的意識はまるでなし。地位、名誉、金銭に無関心なのである。
マッヨラーナは中性子の存在を確信しただけでなく、陽子と中性子を基にした原子核の安定性(同位体の不安定性)についての理論も作り上げた。
ローマの物理学研究所を率いるフェルミにしてみれば、自分たちの手柄になるから是非この理論を重要な会議で発表すべきだと彼に迫るが断られる。数カ月後にドイツのヴェルナー・ハイゼンベルク(1932年ノーベル物理学賞受賞)がまったく同じ仮説を提出し先を越されたが、その時もマッヨラーナは「もうハイゼンベルクがすべて片づけてくれたよ」とただ笑ってるだけで、フェルミを大いに落胆させた。誰かに「出し抜かれる」ことは、科学者にとって最低の悪夢だが、マッヨラーナは「打ち負かされた」などとは微塵も思わないのである。
一方でフェルミにも解けない難しい計算をすらすら解いてしまい、フェルミをして彼をアイザック・ニュートンやガリレオ・ガリレイと同列に置き、自分は二流だとさえ言わしめた。自分の才能を無駄にしているとも思える彼の態度にフェルミはイライラし続け、ついに2人は仲違いしてしまう。
フェルミには想像力が欠けていた。フェルミが量子力学の基礎に何ら寄与していないことからも明らかで、哲学が苦手、抽象的な物理問題も好きでなかったと、マゲイジョは同書で手厳しい評価を下している。
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