株式会社日本医事新報社 株式会社日本医事新報社

CLOSE

聖医 林 信雄(上)【地霊の生みし人々(18)】[エッセイ]

No.4741 (2015年03月07日発行) P.68

黒羽根洋司

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-03-14

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
    • 1
    • 2
  • next
  • ドイツ・ヴュルツブルク大学のレントゲン教授が、19世紀最大の発見といわれるX線を初めて見たのは1895年11月8日、金曜日の夕方であった。X線は肉眼では見えないから、正確にはX線による蛍光を見たというべきだろう。いずれにせよ、この時から医学も工学も大きく変わり、X線は人々に計り知れない恩恵を与えてきた。

    歴史的な日から、ほぼ1年半後、X線の臨床応用に生涯を捧げた一人の医師が鶴岡に生まれた。おのれの職責を全うするという強固な意志を持ち、清廉で無私な生涯を貫いたこの人・林信雄を、後年人々は「聖医」と呼んだ。被ばく障害で両手指を失いながら、慈悲深い千手観音のようであったと讃えられた林信雄の一生をたどれば、私たちが師表とすべき一人の日本人の清々しい姿がみえてくる。

    出生とその環境

    林信雄は1897(明治30)年4月8日、鶴岡に生まれた。母を5歳の時に亡くし、父とは小学校6年の時に死別したため、孤独の境遇にあって成人する林だが、彼の終生揺るがぬ姿勢の源は環境と血脈にあった。

    まずは環境である。林信雄出生の地近くに、学問の神として菅原道真を祀り庄内一円の崇拝を集める鶴岡天満宮がある。編み笠をかぶって顔を隠し、街頭で酒をふるまう、別名「化けものまつり」と呼ばれる奇祭・天神祭は、ここの例大祭である。神宿る杉木立が発する霊気は、彼に見えざるものへの畏怖をはぐくんだ。

    さらに信雄が生まれた茅ぶきの家は、天保時代の篤志家、鈴木今右衛門の住家であった。天明の大飢饉で飢えた窮民が庄内に流れ込んだとき、一家を挙げて挺身した美談は、後に小学校の国定教科書(修身)に紹介され、全国に知れるところとなる。信雄が備えたいくつかの美質の苗床は、史跡として保存されるほどの由緒ある旧家の中にあった。

    次に、林家の系譜から信雄の背景を眺めてみる。

    母の竹以は藤島町(現在の鶴岡市藤島)で町長を務めた山本清一郎の妹であった。清一郎の三男、つまり信雄と従兄弟の間柄になる山本善雄は、元海軍少将で旧海軍省の事務局長の要職に在って、日本海軍部内でも至宝と称された俊才である。 

    信雄とは血縁関係はないが、祖母にあたる人は高山家から林家に嫁し、明治の文豪として名高い高山樗牛とは叔母―甥の関係になる。

    記録によれば、林家は三河吉田城(現在の岡崎市)で、足軽百人組の組頭として召し抱えられた林作左衛門を祖とする。その後酒井家に従って転々し、信雄は十代目にあたる。その系譜を概観すれば、秀才と呼ばれた人々を輩出している反面、早世する者も多い。身もだえするほどの多量の仁で生きる信雄に、どこか哀切さがつきまとうのは、そのような血脈にも由来するのかもしれない。

    いずれにせよ、環境に加えて、才ある人々から受け継ぐ資質が信雄の人格を醸成していったことは疑いようもない。

    残り1,014文字あります

    会員登録頂くことで利用範囲が広がります。 » 会員登録する

    • 1
    • 2
  • next
  • 関連記事・論文

    もっと見る

    関連書籍

    関連求人情報

    もっと見る

    関連物件情報

    もっと見る

    page top