林信雄は67歳の生涯を閉じるわずか2月ほど前、1964(昭和39)年10月に母校、鶴岡南高校で全在校生を前にして講演を行った。氏の業績を讃えようと始まった「林博士記念文庫」創設の式典が鶴岡で開催されたのを機に企画された記念講演であった。放射線被ばく障害で両手指のほかに左前腕を失い、2年前には胃癌手術を受け、既にかなり体力を消耗していたはずである。病める体を正装に包んだ痩身の林は、あたかも後輩への遺言状のごとき言葉を残していった。
その場に高校3年生として聴講した筆者も、いつの間にか林の没年に達してしまった。人を救うために生きた医師の後半生をたどることで、彼の遺志にこたえたい。
1919(大正8)年3月、千葉医専を卒業した林は、当時の習わしとして、同期生4名とともに柏戸内科に入局する。千葉医専が誇る名教授、柏戸留吉は温厚篤実で努力型の学者で、患者の診療には周到細心を心がけた。医者は他の職種にもまして、最初に指導を受ける上司に影響を受けることが多い。林も柏戸教授の姿勢を受け継ぎ、無給ながらも夜遅くまで仕事に打ち込み、勉学に励む充実した日々が続いた。そして、林がライフワークとする放射線医学との出会いが待っていた。
1921(大正10)年、林は内科レントゲン創設のため、内地留学の形式で京都大学中央レントゲン室にいくこととなった。当時としては大変名誉なことであり、同僚の羨望の的となった。林医局員の優れた素質を認めての推薦であることは間違いない。
京大では先輩の浦野多門治講師の門下に入り、ひたすら専門とするレントゲン学の研究に没頭した。医療の中で必要性を増してきている、若い学問の可能性に次第に魅かれていった。
1年半の京都留学で、最新の放射線医学の知識を身につけて千葉に戻った林は、医専の講師、愛知理学療法所の内科医として第一線の医療現場に復帰する。豊富な臨床例に基づいて研究に打ち込む少壮の医師は、内科的レントゲン診断学の開拓者として学会で注目されるようになる。だが、この分野での草創期にパイオニアとしての役割を担わされた林の身体は、次第に蝕まれていく。被ばく障害という恐るべき伏兵があることも知らずに、ひたぶる心をもって日も夜も分かたず、新進の科学に立ち向かっていった結果である。
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