青年期には痩せぎすで神経の張り詰めた榕庵も世与と結婚すると肥満して穏やかになった。その風貌は、坊主頭に仏像を思わせるふっくらとした頰と大鼻、切れ長の目に耳と口唇は小さめで、首は太く短かった。甘辛両刀遣いで亀戸天神の茶店で出す汁粉が好物だった。
世与は美人で気立てはよいが蒲柳の質でなかなか身籠る徴がなかった。榕庵も猪肉を食べて精をつけたが効き目がない。
「夫婦で湯治をすれば子にめぐまれるかも」と玄真に勧められ、世与を連れて熱海温泉へでかけた。湯河原、有馬、菰野、諏訪と名だたる温泉も巡り歩いた。化学者らしく湯の成分を分析して主な効能をそれぞれの温泉宿に伝えると、悦んだ宿の亭主は湯の効能書きを貼り出して大いに喧伝した。だが肝心の跡取りは授からなかった。
玄真は門人で大垣藩医の飯沼慾斎に頼んで慾斎の3男興斎を榕庵の養嗣子にするようはかった。本草学者で好人物の慾斎は、宇田川家のためなら、と縁組を承諾した。この慶事を師の玄沢に真っ先に伝えたかったのだが、すでにこの世の人ではなかった。玄沢は玄白師の宿願だった『解体新書』の改訂版である『重訂解体新書』を上梓したあと体調を崩し、文政10(1827)年3月30日に71歳で他界した。安らかな師の死顔に接した玄真は、無一文で路頭に迷った時分から一方ならぬ世話になった玄沢を偲んでいつまでも遺体の脇に座りこんでいた。
予てから玄真は愛弟子の坪井信道に、「そろそろ自立して医塾を開いてはどうか」と勧めていた。文政12(1829)年5月、信道は深川の上木場に小屋を見つけ、そこに蘭学塾を開きたいと申し出た。
元来欲の少ない信道は35歳の働き盛りにもかかわらず貯えが少なかった。玄真は開業資金に金5両を用立ててやり、信道は上木場の三好町に『安懐堂』と名づける医塾を開設した。思いやりの深い信道は患者の評判も上々で医院は大いに繁盛した。
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