高良斎が奥に去ると、土生玄昌は義父の耳元で低く囁いた。
「せめてシーボルト殿に開瞳薬の薬方伝授を願ってはいかがでしょうか……」
義父は気を取り直したようにうなずき、「それには相応の贈り物が要るだろう」
と腕組みして目を閉じた。そして、ふと思いついたように瞼をひろげ、
「シーボルト殿に鰻の蒲焼を賞味してもらうのはどうじゃ?」
「はい、珍味なりと悦ばれるかも」
「よし、明晩おまえは鰻の蒲焼を差し上げ、薬方を訊き出して参れ」
この夜から義父は浅草の屋敷に帰らず、芝口町の迎翆堂に寝泊まりして薬方伝授に備えることにした。
翌晩、玄昌は江戸随一といわれる大和田の蒲焼を携えて長崎屋へいった。前約なしに異人に会うのは御法度だが、門前の張り番は葵紋の羽織をチラと見ただけで通してくれた。応対に出た通詞の吉雄忠次郎に、「シーボルト殿に開瞳薬の薬方伝授を願いたい。ついては、この鰻の蒲焼をシーボルト殿に」と頼んだ。忠次郎は快く承知して奥へ消えた。だが、蒲焼の包みとともに戻ってきた彼は済まなさそうにいった。
「先生に伝授を断られました。鰻も先生のお口には合わないそうです」
蒲焼は忠次郎に与えて玄昌は迎翆堂に戻った。顚末をきいた義父は、
「ならば、わしの秘蔵する(歌川)国貞の枕絵と弁財天のお守り、それに駅路の鈴を持参いたせ」と新たな策を授けた。
翌晩、玄昌は忠次郎を通じてシーボルトに枕絵などの品々を贈ったのだが、前日同様、「薬方の件になると先生は口を閉ざしてしまいます」と忠次郎はうなだれた。
「またも不首尾か」
玄昌の報告に義父は奥歯を軋らせた。
「しかし一つだけ手がかりが」と義父の怒りが爆発せぬうちに玄昌は早口でいった。
「忠次郎殿の話では奥医師方が着用する葵の時服は長崎で手に入らぬので、あれを譲って貰えるなら薬方の件を考えてもよいと先生は仰ったそうです」
むむっと、義父は一瞬ひるむように顎を引いた。
残り1,497文字あります
会員登録頂くことで利用範囲が広がります。 » 会員登録する